羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 重箱に二段に分けて持ってきた弁当は、一時間以上かけてゆっくり食べ終える。営業回りの合間に掻き込む食事とは根本的に違うのだということがしみじみと感じられた。海風が頬を撫でて、火照った顔の熱を奪っていく。
「ねえ、もうちょっとしたらまた海入っていい?」
「水分補給こまめにするならな」
「します!」
「はいはい、素直でよろしい」
 今は日中で一番暑くなる時間なので、もう暫くはここにいろと言い日陰へとそいつを押し込む。そいつはまだ遊び足りない様子で、ビニールシートから手を伸ばして砂に突っ込んだりして上機嫌だ。
「おれ、今まではさぁ……別にいいかなって思ってたんだよ、こういうこと」
 唐突にも思えたその言葉は、けれどずっと言おうとしていたんだな、と思える響きで耳に届いた。こういうことというのは、遠出のことだろうか。海に行ったり、外でこうして弁当を囲んだりすることか。
「おれが誰かの家に置いてもらうのに必要無いことじゃん、こういうのって。家事するだけなら、家とスーパーとの往復で事足りるわけだし」
「ああ……」
「行ったことないとことか見たことないものとかおれにはたくさんあるけど、わざわざそれを言って相手に気を遣わせるのもいやだな、って思ってたし。でもさ、孝成さんはそういうのじゃないっていうか……」
 そいつは続きを言い淀んで、口をつぐむ。
「なんなんだろ。ふしぎ」
 結局言葉は見つからなかったのか、へらりと笑ってまた静かになった。俺は少しだけ考えて、ゆっくり言葉を選ぶ。
「……なんでか教えてやろうか」
「え?」
「俺がお前のこと、家に置いてやってるとは思ってねえからじゃねえの。俺は普通に、お前と一緒に暮らしてるって思ってるし」
 これは一方的な関係ではないのだ。それを分かってほしい。
 俺の思っていることが正しく伝わればいいと思う。契約を取るときだってここまで真剣に、真摯に何かを伝えようとしたことはなかったかもしれない。
 そいつは一瞬何かを言いかけて、誤魔化すように目を伏せた。
「……あんまり優しいことばっかり言われると、寂しくなるね」
「はあ?」
「孝成さんのことは、いっぱい思い出しちゃうかも」
 気持ちはあんまり残したくないなあ、と言ってそいつは眉を下げて笑った。
 やはりこいつは、どれだけ今の生活に馴染んでいるように見えてもそこに根を下ろす気は無いのだ。薄々分かってはいたことだったが、こうもはっきり言われてしまうとどうしてもショックだった。
「お前は俺のこと忘れたいか?」
「そういうわけじゃないけど……忘れたくないひとがたくさんいるのは、ちょっとしんどい。忘れたくないのに忘れちゃうのが悲しいから」
 そいつの指先が、小さな傷跡のようなピアスホールをそっと撫でた。
「それ……自分で開けたんじゃねえだろ」
「え、これ? あー……うん。おれがね、初めて転がり込んだ家のひとが開けてくれたんだ。きっと似合うよって。……そのひとは結婚で引越した」
「結婚……」
「うん、お見合い。ほんとはあんたと結婚したかったのに、って言われちゃったけど、まあ、無理だし。なんで私と結婚できないのって言われちゃったりもしたけど、理由話せなかったし」
 淡々と語られるせいであっさりした印象を与えてくるが、実際にはもっと色々あったのだろう。そいつは、「おれが相手じゃ当たり前のことも当たり前にできないんだなって、誰かを幸せにしてあげられないなって分かったから」と言葉の内容とは不釣り合いなくらい優しげに目を細める。
「孝成さんもいつか結婚するでしょ」
 短く端的な言葉は重かった。有無を言わせない口ぶりだった。
「……ごめん。八つ当たりした。おれのせいで婚期逃したりしないでねー?」
 不自然なほどに明るい声をあげたそいつ。俺は咄嗟に、「後悔してるか?」と言ってしまう。
「なにがー?」
「その……最初の家の奴と結婚できなかったこと」
「いや、それがあんまり。薄情かなー。そのひとへの未練は無いんだ。なんとなくなんだけど、なんか違うなって思ってて」
 でも理由分かったかも、と言ってそいつは笑った。
「もしおれがそのとき結婚できてたら孝成さんには会えなかったよね」
 それはひときわ静かな声だった。波の音で掻き消えてしまいそうなくらい。
 黒髪の隙間から、予想外に意志の強そうな瞳がこちらを見ている。見つめ続けると色々と見透かされそうで、けれど目は逸らせない。
「初めておれを海につれてってくれたひと」
 唇がかすかに動く。
「いや、違うか……」
 静かで、消えそうなくらい小さな声だと思ったのに。何故だかはっきりと聞き取れる。それは、きっとこいつの声だからなのだろう。
 もうこれ以上誤魔化すことなんてできない。
「初めて、おれと一緒に海に行ってくれたひと」
 そいつがあまりにも幸せそうに、けれど泣きそうな瞳で俺を見るものだから。
「バカかよお前、それだけで、足りるわけねえだろ……」
 もっとお前と一緒にやりたいことも見たいものもたくさんあるのに、と思わずその華奢な体を抱きしめそうになって、俺はようやく、こいつのことが好きなのだということを認めたのだった。

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