羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「……興味本位で聞かれても困るとか言ってごめんね。孝成さんは何も聞かないでいてくれたし、興味本位なんかじゃないってちゃんと分かってたのに」
 迷惑かけちゃった、とこぼして、一瞬沈黙が降りる。
「流石に……ここまで世話になっちゃうと、何も言わないっていうのも不誠実だと思うんだよねえ」
 どうやら、ひとつの家にここまで長くとどまっているのは初めてらしい。それだけ、多くの奴に不躾に色々聞かれてきたのだろうか。
 他人を牽制して、壁を作りながらでないと生活していけないほどに。
「そろそろ、人との適切な距離感って学んだと思ってたんだけど。やっぱおれ頭悪いからなあ……おんなじ失敗繰り返してる気がする」
 お別れしたくなくなっちゃうんだよね、と何でもない風に言って、一人っきりでいたくないという俺にとっては当たり前の感情を「失敗」だなんて表して、そいつは投げやりな声をあげる。
「学校行ったことないんだ。戸籍も住民票も無いし免許取れねえしもちろんパスポートも無理。税金の督促も来ない。権利も義務も何も無い。おれはここにいるのにどこにもいない」
 それは普段とは少し違った、雑な口調で。きっと勢いをつけて言わないと何も言えなくなってしまうんだろうなと他人の内心を想像してしまう。傲慢なのだろうか、これは。
「……おれが死んでも誰もおれのこと分からないんだよ。さびしいなって、思う」
 そう言ってそいつは黙った。ちゃんとした自分を知っていてくれる人がいないというのは、どういう感覚だ。俺には分からない。想像しようと思っても、戸籍があるというのが自分にとって当たり前すぎることだったからか難しかった。そもそも、戸籍の有無を気にする機会なんてのも滅多に無い。結婚していたらまた別だったんだろうが。
 だから一人暮らしではなく居候だったのか、と思った。
 住所不定だと正社員として働くのはほぼ不可能だろう。そもそも戸籍が無いなら社会保険などの手続きもできないはずだ。
 こいつの生きる世界はとても狭い、箱庭のようなものだった。
「お前、そっか、仕事も……」
 舌がもつれる。しどろもどろになってしまって笑われた。そんな状況なのに、ああ、まだ笑ってはくれるんだなと安心する。
「ほんとはね、別に戸籍なんかなくたってバイトくらいならできるんだ。履歴書いらない短期バイトとか、昔はやったりしてたんだけど……」
 周りの人はみんなちゃんと家があって名前があって家族がいて、おれ、すごく場違いな気がして。そんな風にそいつは言った。出会った頃に、やけに名前をつけてもらうことにこだわっていた理由が、おぼろげながらほんの少しだけ想像できる気がした。
 名前を与えられて、誰かの「所有物」になって、誰かの為に家事をして、その間だけはその誰かに自分の存在を許されている。
 そういう理由が、あったのかもしれない。誰かに、自分がここに存在しているということを認めてもらいたかったのかもしれない。
「んー……いざ話してみるとあっさりだったね。孝成さん、おれに何か聞きたいこととかある? なんでもいーよ、この際だし」
 聞きたいこと。それは、沢山ある。
 そもそも、「何故戸籍が無いのか」という一番重要なことをこいつは話さなかった。色々な過程をすっ飛ばして結果だけ言われても俺としては頭がこんがらがるばかりだ。一体何歳のときからこんな生活を送っているのかとか、戸籍は無くとも親はいるだろとか、いくらでも疑問は湧いた。そして、今なら言葉通り、聞けばなんでも答えてくれるのだろうとも思った。
 けれど。
「……じゃあ質問一つ目な。お前、今日の夕飯何がいい?」
「は?」
「食欲あるみてえだし、しっかり食った方がいいと思うぜ」
「た、孝成さんおれの話聞いてくれてた……?」
「聞いてた。でも、戸籍があろうがなかろうがお前と一緒にいんのは楽しい」
 今度はそいつがしどろもどろになる番だった。あーだのうーだの意味のある言葉を発せずにいたそいつは、やがて「ど、どうも……」と控えめに言う。流石にコーンスープは作れねえぞと言うとシチューが食べたいと返ってきた。簡単なチョイスな辺り気を遣われているのがひしひしと伝わってくるが、まあいいだろう。
「質問二つ目。俺は、お前にこの家にいてほしいと思ってるけど。お前は嫌か?」
「い……やじゃ、ない、です」
「おう。で、これ最後。体調治ったら遠出しようぜ。どこ行きたい?」
 とおで、と、そいつはまるで初めて聞いた単語を復唱しているような調子で呟いた。
「そ、遠出。この三連休はきっちり休んで、次の休み使って行こうぜ。お前知ってた? 俺、実は車の運転できるんだよ」
「くるま……」
 いよいよ喋り方が怪しくなってきたそいつに、まさか熱がぶり返してきたかと額に手を当てるがそこまで熱くはない。小さく口が開きっぱなしになっているそいつの表情はなんだか間抜けで、思わず笑ってしまう。
「別にお前が車の運転できなくても俺ができるし。俺は料理も掃除も苦手だけどお前は得意だし。それでいいんじゃねえの」
 免許を取りたくても取れない奴の前で言うにはあまりにもデリカシーの無い言葉だったかもしれない。けれど、今の俺にはこういう言い方しかできなかった。俺が必要としているから、余計なことは心配しないでちゃんとここにいてほしい。
 山ほど質問したいことはあったけれど、まだ聞くときではない筈だと思う。きっとこいつは無理をしている。俺に迷惑をかけてしまったからと、自分の抱えた事情を対価にしようとしている。そういうのは、嫌だ。自分から話してくれるまで待ちたい。たとえ綺麗事だったとしても。
 こんな風に話をされても嬉しくない。
 俺は人からこんな重い身の上を聞かされたのは初めてで、気の利いた慰めもできないし、魔法のように解決策を提示してやれるほど人生経験に富んでいるわけでもないし、こいつにとってまったく為にならないことをさせてしまったのだろうと思う。
 それでも俺はやっぱり思うのだ。
「……海、行きたいなぁ」
「海? 次の休みだとクラゲいるかもな……泳げねえかもしんねえぞ」
「いいんだよ。おれ、海ってテレビでしか見たことないから見てみたいんだ」
「マジか。じゃあ俺が運転するからお前弁当作ってくれよ。玉子は甘いやつがいい」
「ふふ、頑張ってつくらないとね」
 こいつがこうやって笑ってくれているうちは、俺と一緒にいることが嫌ではないと思ってくれているうちは、こうして傍にいたいなと。

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