羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「うううう、疲れたー……」
 喫茶店で大袈裟に背伸びをして背骨をパキパキと鳴らす後輩を、俺はそっとテーブルの下で小突いた。
「恥ずかしいことするな。あと声がデカいって」
「うっ、スミマセン先輩……」
 途端にしゅんと分かりやすく机に突っ伏してしまったそいつ。今は営業の外回りが終わって、適当な店で成果を軽くまとめていたところだ。
 伊勢原透という名前の後輩は、去年度の始めから一緒に仕事をしている営業仲間だった。明るく素直で見目のよかった後輩は入社当初から女性社員の噂の的だったらしく、入社して一年ほどで花形であるこの部署へと異例の配属をされてきた。今は俺の教育のもと、日々勉強中といったところだ。
 幼いところはあるが物覚えがいいし、俺が少しキツいことを言っても引きずらないところが特にいい。愛嬌があるのは才能だ。俺には仕事以外でこんな愛想よく生きられる気がしない。伊勢原はさっそく俺の小言から立ち直って、期待に満ちた目でこちらを見てくる。
「あっ先輩せんぱい、午前中のプレゼンどうでした? 事前に先輩に見ていただいたんで、結構上手くできたと思うんですけど……」
「うん、よかったと思うよ。そうだな……喋るのが上手いんだからもっと堂々と喋ったら? 色々気にしすぎない方がいいでしょ、伊勢原は」
 褒めるとにこにこと本当に嬉しそうにするのでこちらとしても悪い気はしない。これまでどうにも年下との相性が悪かった俺が、こうしてまともに伊勢原と一緒にいられるのはこいつの功績がとても多いのだろう。
 俺は生来の気質なのかなんなのか、どうにも態度につっけんどんなところがあるらしい。平均より少しだけ小柄で華奢で、おまけに目鼻立ちだけは平均以上だったものだから同性異性問わず変な奴に好かれることが多かった。そのためそんな奴らの撃退をし続け性格がキツくなったというところもある。仲の良い昔馴染みからは冗談交じりに女王様のようだなんて言われることも少なくない。せめて王様にしてくれと思うばかりだ。
 そんな自他共に認める難ありの性格の俺にも構わず懐いてくる伊勢原は、周りからやっかみも込めて「犬」だなんて称されているらしい。まあ、確かにこうして見ていると時折見えないはずの犬耳や尻尾を幻視しそうになるが。温和で友好的。ゴールデンレトリバーって感じだ。出来のいい後輩。俺には勿体ないくらいかもしれない。
「普段キツい綾瀬先輩から褒められると嬉しいです!」
「は? お前、それは思ってても言うな。馬鹿正直すぎるから」
「す、すみません!」
 やっちまったー! みたいな顔をするのが面白すぎて思わず笑った。「で、でもキツくてもいいと思います! 綾瀬先輩はそこがいいんだと思います!」必死な表情で熱弁し始めたのでどうしたものかと恥ずかしくなる。とりあえず手でそいつの口を塞いで、左手首の腕時計を確認した。この時間なら、直帰してもいいだろう。もとより今日はそのつもりで、伊勢原にも同じように直帰を申請させてから営業に出たのだ。今日は金曜日だから、夜はゆっくりできる。
「……土日予定ある? この後暇?」
「先輩のために空けてあります!」
「そ。よくできました」
 口を塞いでいた手を外すと即答で俺のことを優先してくれる後輩。言い様も無い不思議な感情を覚えながら、俺は伝票を掴み立ち上がった。
 後ろから慌てて俺の後をついてくる気配がする。そうだ、もっと俺に振り回されてればいいんだよ、お前は。
 そんな風に考えてしまう自分に、内心でそっと溜息をついた。

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