羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 好きな人と共有したいことはたくさんある。兎束さんってどんなものが好きなのかな、とか、どういうことされたら嬉しいかな、とか、どういうとき幸せな気持ちになるかな、とか。
 もちろん、されたら嫌なこととか、悲しいこととかもちゃんと知っておきたい。おれも、いいところばっかり見せようとするんじゃなくて、弱い部分も駄目な部分も知っていてもらえるようにしたい。兎束さんも同じように思ってくれていたら嬉しいなって思う。
 好きな人の前で完璧でいられたらそれはそれですごいんだろうけど、あいにくおれじゃすぐにボロが出そうだし。というか、既に『三浦さんって割と色々なことが雑だよね』って言われてるし……家事が一切できないのもバレている……。
 兎束さんみたいな人になりたかったな。気遣いができて周りのこともよく見えてる、優しい人に。

 休日の、昼下がり。キッチンに立つ兎束さんの後ろ姿をそわそわとした気持ちで眺めていると、振り返った彼はおれを見て目を細めて笑った。
「三浦さーん、また卵の賞味期限切らしてる」
「うわ。スミマセン……」
 おれはたぶん、平均よりもだいぶ生きるのが下手だ。生活力がゴミカス。作業に集中しすぎて度々飯を食い忘れるし、フードのついたトレーナーやタートルネックのセーターの綺麗な畳み方が分からないし、コンビニで買ってきたおかずをレンチンするだけなのに容器がレンジの中で爆発して途方に暮れたりする。
「というか使い切れないのになんで十個入り買うの?」
「なんとなく卵はたくさんあった方が嬉しい気がするので……」
「はは。じゃあ今日はオムレツにしよっか。ひき肉冷凍庫にあるから解凍しておいて野菜と炒めてそれ入れてー……賞味期限二日過ぎてるだけだし、加熱すれば気になんないよな? あとは適当に肉焼こう」
 おれのバカすぎる発言にも怒らずに夕飯のメニューを提案してくれる兎束さんは、ものっすごく人間ができた人だと思う。
 彼はおれの家に遊びに来ると必ずと言っていいほど夕飯を作ってくれる。申し訳ないから別に作らなくて大丈夫、って言っても、気持ちに余裕あるときにやってるだけだから、なんて返される。場所代だと思ってよ……とかなんとか。おれは兎束さんがいてくれるだけで嬉しいんだけど。
「あの、兎束さん」
「ん? 何?」
「いつもスミマセン、作らせちゃって。作ってくれるの嬉しいけど、外食とかで息抜きもしましょうね」
「心配してくれてるんだ?」
「当たり前でしょ……」
 当然すぎることを言われて拗ねたいような気分だ。おれだって、本来自分がやるべきことを人にやらせて平気でいるような奴じゃない……と思ってる。
「ごめんごめん。三浦さん家庭的なことに向いてないなーって見てて思うから、だったら俺がやればいいじゃんってしてるだけなんだよ」
「おれ一応十年近く一人暮らししてるんですけど……!?」
「逆に十年一人暮らし経験あってなんでそんな家事が下手なんだろうね?」
 う。それはたぶん、周りの人たちがなんだかんだ世話を焼いてくれてたからだと……今振り返ってみれば思う……。兎束さんには内緒だ。バレてそうではあるけど。よく考えたら、元カノはまだしも同級生の男とかも飯作りに来てくれたりしてたんだよな……。
 おれの家って何かと集合場所や宅飲みの会場になることが多くて、学生時代は週の半分以上は自分以外の誰かが家にいたし、好き勝手泊まったり冷蔵庫に酒突っ込んだりキッチン使ったりって感じだった。キイチなんかはおれよりもおれの家の冷蔵庫の中身に詳しくて、流石になんでだよってツッコんだこともある。
 宅飲みした翌日なんかは余った料理をそのまま食べるし、家を使う予定がなくても誰かと外食の約束してたり。おまけに、なぜかみんなおれに食料をくれるのだ。おかず作って持ってきてくれたりとか。男は『どうせ一人だとロクなもん食ってないだろ』なんて言いながら。女は『あの、もしよかったら……』と恥ずかしそうに。
「三浦さん? 大丈夫? どしたの急に黙って……家事できないの気にしてた? ごめん」
「え、あ、スミマセン。おれ色々とやってもらってばっかりだなって……あの、兎束さんもおれに何かしてほしいことないですか?」
「してほしいこと?」
「家事……は苦手ですけど、頑張ります。他にも、んーと、おれができることで兎束さんが喜んでくれることが知りたい……です」
「え、俺そんな不満そうに見える? 家事はほんとに苦じゃないよ」
 あっバカ、言葉のチョイス間違えた……不安そうな顔をさせてしまった。別にそういう意図はなかったんだけど、兎束さんは気を遣いすぎるところがあるから。というかオブラートに包まず言うと根暗だよね。かなりネガティブ。そういうとこはよく分かんない。でも嫌いじゃない。
 にしてもおれが色々考えながら喋るとマジでロクなことにならないな、昔から。慌てて兎束さんに駆け寄って、ぎゅっとその体を抱き締めてみる。微かな笑い声が聞こえた。……大丈夫そうだ。
「そういうわけじゃなくて、おれも兎束さんのために何かしたい。好きな人に喜んでほしいって自然と思うんです」
 兎束さんは、おれの首筋に頬をくっつけて、「そうだね、俺も三浦さんが喜んでくれるかなって期待して色々やってるし」と内緒話を打ち明けるみたいにして教えてくれた。
 じゃあ今こそおれもアピールタイムだ、と思ったんだけど。
「……プログラミングが得意って全然日常生活で役に立たないですね」
「機械に強いっていいことじゃん」
「一応、あの、PC関係だったら割と強い……と思います。ネットおかしいとか故障かもとか、家庭で起こるレベルのやつならトラブルシューティング可能」
「うわーそういうのほんと憧れる……! 俺も頭よさそうな特技欲しかった」
 んんん、なんかちょっと……方向性を間違えた気がする……!
 おれはもっと、おれのしたことで兎束さんに喜んでもらって、わー好き! って思ってほしいんだよ。そう、そんな感じ。おれのこともっと好きになってほしい……だからPCのトラブルシューティングはちょっと違う……。
「……もっとこう、兎束さんが『わー好き!』ってなることがいい……」
 結局全部言った。もう駄目だ……。
 兎束さんは何か楽しいことでも見つけたのか、おれから体を離して柔らかい笑顔を浮かべた。「『わー好き』ってどういうこと? もうちょっと詳しく教えてよ」言葉足らずでも怒らない優しい兎束さん。いつも穏やかな雰囲気で、そういうところも好き。
「兎束さんがおれのこと『好きだなー』って思ってくれるような何か……が、したい」
「俺に『好きだなー』って思ってほしくてさっきからそんな頑張って色々考えてくれてたの?」
「え? そうですけど。それ以外にあります?」
 また自分から聞いておいて照れてる。かわいい。
 兎束さんはおれの手を引いて、最近新しく買ったソファに座った。兎束さんと一緒に座るために買ったソファだ。二人で選んで、お金を出し合って、おれの家に置くことにした。
 おれの家に、おれだけのものではない何かが増えていくのが嬉しい。
「じゃあ、ひとつお願いなんだけど」
「! 何かありますか? なんでもいいですよ」
 甘えるような雰囲気を敢えて出してくれていることが分かって嬉しくて、つい勢い込んで聞いてしまった。おれにも兎束さんのためにできることがあるんだってことにテンションが上がったというのもある。
 兎束さんのどんなサインも見逃さないように注意深く見つめていると、彼は一瞬恥ずかしそうに俯いて、小さな声で呟く。
「……名前、呼んでほしくて」
「えっ」
 思わず口を突いて出た驚きの声は、「……なに、俺が名前で呼んでほしかったら意外?」と拗ねたような声音で迎えられる。
「や、意外っていうか、おれがちゃんと使い分けできないから嫌かなって」
「使い分け?」
「あのー……ほら、うっかり会社でも下の名前で呼んじゃいそうで。おれ絶対そういうのミスると思うんですよね……兎束さん、嫌じゃないですか?」
 実はおれも呼びたいなって思ってたんですけど、というかおれも呼んでほしいなって思ってたんですけど、と自分でも歯切れが悪くなっていることに気付きつつ白状する。
 兎束さんは何事か考えている様子だった。「そっか……うっかり会社でも呼んじゃいそうか」一旦言葉を区切った彼は、ぐっと顔をこちらに近付けてきたかと思えば至近距離で――それこそ吐息がかかりそうなくらいの近さで囁く。
「そしたら……もっと仲良しなのバレちゃうね……?」
 恥ずかしそうな、けれどどこか期待しているみたいな笑顔だった。
 おれにはまだまだ兎束さんについて知らないことがたくさんある。てっきり渋い顔とか、もしくは困った顔をされてしまうんじゃないかと思っていたのに。
 なんだかたまらない気持ちになって、強く抱き締めたまま名前を呼んだ。
「湊、くん」
「――、はは。これやばいわ、俺こういうの嫌だったはずなのに会社でも呼んでほしくなっちゃいそう。明楽さんはどう思う?」
 さらっと名前を呼ばれたことに少し動揺してしまったけれど、おれはすぐに声をあげる。思ったままを、自信を持って。
「おれは――兎束さんとこんなに仲良くなれたこと、いつでも自慢したいくらい嬉しい! だから兎束さんが呼びたいときに、呼びたいように、いつでも好きに呼んでほしい……」
「呼び方一瞬で戻るじゃん」
「う。言ったでしょ、切り替えが下手なんですよ……敬語も完全に抜くのかなり時間かかると思います」
「そんなの、何年だって待つよ。……待っててもいいんだよね?」
 嬉しくて嬉しくて、驚いたことに咄嗟に言葉が出なかった。何度も頷いて、返事の代わりに手をきゅっと握って、指先を撫でる。温かい。嬉しい。幸せ。
 何年だって待っていてほしい。ずっと先の未来でも一緒にいたい。
 きっと兎束さんはおれのことを自然に下の名前で呼ぶように移行できるし、さん付けもやめようと思えばすぐにやめられるんだと思う。器用な人だし、おれが望めばそれを叶えてくれるって思えるくらいには愛情は伝わってきてる。そんな彼が俺に足並みを揃えてくれて、未来の約束をしてくれる。
 兎束さんは楽しそうに、「みんなが明楽さんのこと下の名前で呼び始めたら妬けるから、やっぱりこの呼び方は秘密にしとこうかな。ね? 三浦さん」なんて歌うように言った。兎束さんが笑ってくれるならなんでもいいかも。
 おれが初めて愛したのがこの人でよかった。
 好きな人が笑いかけてくれるだけでこんなに心臓が高鳴るなんて、まるで陳腐なラブソングの歌詞みたいだけど――それでもやっぱり、おれには彼だけなのだ。
 彼だけが、おれの愛だった。

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