羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 入社してすぐの頃からずっと、彼のことを見ていた。
 あの頃のおれは、自分のあまりの最悪っぷりに人生疲れてしまっていて、この会社に拾ってもらえたのだから今度は絶対トラブルなんて起こさないように、人と関わらないように生きていこうと決意を固めていた時期だった。本当だったら十二月入社だったのを髪を伸ばすために四ヶ月遅らせてもらって、それで――。
 一目見て、あ、いいな、と思った。
 造作だけじゃなくて全体的に気を遣っていることが分かる整った身なりと柔和な雰囲気が、当時からかなり好印象だったのだ。おれも見た目を褒められることは多かったけど、自分とはまったくタイプが異なる顔立ちなのも新鮮だった。彼はいつもにこやかで、相槌が上手く、場の流れに気を配っていた。話題の中心になりがちなのを、上手にコントロールして主役を他に譲る人だった。
 たぶん、猫被ってなかったら話し掛けにいってたと思う。けれどおれはもう必要以上に他人に近付かないと決めたばかりで、社員番号も遠かったから、結局全体研修の間は一度も喋らず。部署ごとに研修が分かれてからは、尚更接点もなくて。
 でも、おれは彼のことをずっと見ていた。好意半分嫉妬半分。飲み会を全て断って残業に充てていたおれの耳にも、彼の噂は届いていたから。
 ちょうどよく好かれて、問題を起こさない。兎束湊という人は、おれがずっとやりたいと思っていてそれでもどうにもならなかったことを、最初から持っていたように見えた。羨ましかった。
 だから、彼が『ネット繋がらない』なんて言いながらおれを頼ってきたとき、ちょっとイラッとしたのは事実だ。あっこいつおれの名前覚えてねえな、という、自分の一方的な感情を思い知らされた苛立ち。なぜか話し掛けられただけで緊張してしまって、必要以上に態度が悪くなってしまった。というか完全に八つ当たりした。直後に申し訳なさでフォローらしきものを入れてはみたけど、きっとおれへの印象は最悪で。
 だから、後日再び話し掛けてもらえたとき、率直に言って嬉しかった。ちゃんと謝ることもできて、うかれていたらピアスがバレた。似合うと言われて、恥ずかしかった。
 飲みの誘いを断れなかったのはおれが弱かったせい。いよいよ人恋しくてどうにもならなくて、そんなときに誘ってもらえたから本当に、本当に嬉しかったのだ。兎束さんは、おれに対して正直に、距離感を測りかねていると言ってくれた。その上で、一緒にご飯を食べようと誘ってくれた。
 それまでぼんやり眺めているだけだった兎束さんの解像度が上がったというか、自分の中で勝手に距離が近付いた。この人と仲良くしたいな、と思った。栄養ドリンクはよくないと思う、なんて言われて、じゃあもうやめようかな、と考える程度には。
 兎束さんは外向きの態度を完璧に作っているタイプの人だろうなと想像してたんだけど、案外隙があるし、かわいい人だった。おれの態度の変化に戸惑っている彼を見るのはなんだか愉快な気持ちだった。
 最初の頃は確かに、純粋な気持ちで仲良くしたいと思ってた。その認識が変わったのはいつだっただろうか。
 ……確か、営業部恒例の成績発表のときだったと思う。兎束さんは、三年目も半ばを過ぎる頃にはもう同年代の営業なんてみんな歯が立たないくらいになっていた。うちの会社は若手の間だけ個人の営業成績を競ってトップスリーを発表するような形式になっていて、そうして鍛えられた個人成績優秀者たちが営業部全体を引っ張っていく。兎束さんも、そんな将来を約束されていた成績優秀者の一人だった。
 その日も一位を獲っていた兎束さん。おれは営業部が集まって成績発表をしているすぐ横のオフィス用置き菓子スペースで、残業を乗り切るためのおやつを見繕っていたのだが、『顔採用』とかなんとか聞こえてきたのでつい声のする方に視線をやった。大勢に囲まれて、兎束さんは和やかに穏やかに受け答えをしていた。
 そういえばおれも、高校のときのバイトで『採用の決め手は顔だった』って言われたな。顔がよくてラッキーって思った。だってほら、他の能力が横並びなら、最終的におれの勝ちでしょ。おれの音楽やプログラミングを顔面込みで評価されちゃうのは微妙だけど、でも、おれは自分の能力を誰よりも信用してるから。
 そんなことを思いながら、自分で『顔採用』って言ってるってことは兎束さんもおれと同じように考えてるのかな、なんて親近感を覚えてこっそり彼のことを観察してみた。みんな解散して各々の席に戻っていくのを、兎束さんはどこか遠い目をして見送っていた。何を考えているか分からない表情だった。
 そして、営業部の人たち全員の視線が彼から外れた――その瞬間。
 一瞬だけ、その瞳が翳った。
 兎束さんはきっとおれが見ているなんて露ほども想像してなくて、だからおれだけがその変化に気付けたのだろう。
 普段は柔らかく微笑んでいるばかりの瞳が昏く沈んでいたことに、どきん、と心臓が反応した。もしかしなくてもこれ、おれと同じじゃないな、って思った。どうしてそんな顔をするのか知りたかった。どれだけの感情をその綺麗な顔の下に隠しているのか、見てみたかった。
 彼の第一印象を一言で言うと、“そつのない人”。
 でも日々観察するうちに、ああ、この人はきっと見えないところで山ほど努力して、でもそれを悟らせないようにまた頑張ってしまう人なのだろうな、と思うようになった。
 だって兎束さんについておれが『いいな』と思うことは、そのどれもが努力を担保にしないと得られないものばかり。それは例えば食事のときの所作の美しさであったりだとか、ノートにおれの言葉を真面目な表情でメモするときの字の丁寧さであったりだとか。
 本当はずっと前から分かってた。認めるのが癪だっただけ。
 兎束さんは、資料ひとつ作るのにも手を抜かない。『難しいことばっか書いてあると俺が混乱しちゃうんだよねー』なんて言いながら、いつでも見やすく分かりやすい資料をまとめていた。
 製品の使い方を顧客に紹介する自社開催セミナーで説明役を任されていたことも何度もあった。後日動画でセミナーの様子を見てみると、明らかに普段よりゆっくりと、発音を明瞭に喋ろうとしているのが分かったし、随所に配慮のうかがえる、“聞いてもらうための努力をしている”喋り方だった。だから何度も説明役を任されるんだろうな、と思った。
 人前で堂々と振る舞う彼の、その完璧さを形成するのに一体どれだけの時間と労力が費やされたのか。
 彼は疑いようもなく、努力の人だった。
 そして、その事実をおそらく周囲の人にあまり分かってもらえていないようだということが、他人事ながら惜しいと感じていた。
 おれが気付けたのだって偶然だ。元々好印象で、でもやっぱりちょっと気に食わなくて、何か少しでも綻びがあれば溜飲も下がるのになんて勝手なことを思ってた。だからこそ気付いた。最初からなんでもできる人なんていないんだってこと。兎束さんも当たり前に、努力をしている人のうちの一人だったってこと。
 ……まあ、だからこそ余計に羨ましくなったっていうのはあるけど。だって、兎束さんは努力したから人間関係が上手いのだ。頑張ったから上手に人に好かれている。だったらおれがそれを上手くできないのは、努力が足りないからってことになっちゃいそうだなって感じた。まだ頑張らなきゃいけない? 甘えてるだけ? おれの今までの努力は、努力のうちには入らない? 努力した気になってただけだった?
 今思えば、かーなり不毛な思考回路だ。これのせいで兎束さんのことが好きだって気付くのが遅れた。
 きっと、ずっと、ただ黙って彼を見ていた頃から好きだったのだ。
 もう少し早く自覚できていれば、兎束さんにあんなつらそうな告白をさせる羽目にはならなかったかもしれない……なんて、そこだけちょっと後悔している。

「三浦さんって、割と恋人とくっつくの好きな人……?」
 ソファに座って、なんとなく手元が寂しかったので兎束さんの左手を借りてその温かさを堪能していると、微妙に遠慮がちな声が聞こえてきておれは視線を上げた。
「え? うん。元々距離感近いって言われること多いんですけど、兎束さんとは特にくっついていたいなーって思います。嫌でしたか?」
 自分から聞いてきたくせに、おれの返答を聞いて頬を赤く染めている兎束さんはちょっと面白いと思う。「う……いや、じゃないけど……」ともごもご言っていたので、ソファの上で体勢を変えて正面からぎゅっと抱き締めてみた。んー、兎束さんって普段からちゃんと健康的な生活をおくってる人って感じの体つきをしている。体温が高くて、細身だけどちゃんと筋肉ついててヒョロくなくて、安心感がある。
「あー……このまま寝そう……」
「三浦さん軽いけど流石にこの体勢で寝られるときついから頑張って起きてて……」
「大丈夫、寝そうなだけで本当に寝たりはしないので」
「俺の家に来たときは寝てたじゃん、一瞬」
「あれは緊張の糸が切れたんです。好きな人の家にお邪魔するんだから変なことしちゃわないようにしようって思ってたんですけど、最後の最後で寝不足に負けました」
 楽しみで眠れなかった? とちょっと楽しそうに言われたので頷いたら、兎束さんはまた言葉に詰まって赤くなっていた。この人、こんな感じでよく自爆してる。最近特に多い。かわいいなと思う。
「兎束さんってかわいいですよね。全然取り繕えなくなってる」
「う……それはさ、もう取り繕わなくていいんだってある意味気を抜いてるというか……三浦さんにしか、見せないし」
 あ。どうしよう、これはおれも恥ずかしい。
 お互いに赤くなって、兎束さんの「やめよっかこの話……」という一声にこれ幸いと賛同する。
 そのまま、なんとなく無言で抱き締め合う。好きな人が傍にいるとこんなに安心するんだなって思った。それと同時に、やっぱりおれはこれまで“誰かを好きでいること”が全然分かってなくて、だから色々な人を不安にさせちゃったんだなとも思った。
 兎束さんには、これっぽっちの不安も感じないで済むようにしてあげたい。
 兎束さんが喜んでくれるならなんでもしたい。
 おれは、傍にある体温にぴったりと体をくっつけて目を閉じる。安心で泣きたくなるなんてことあるんだな、と、瞼の隙間から涙が滲みそうになるのを、心臓の鼓動を感じながら必死で抑えていた。

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