羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 ふかふかのベッドは明らかに上質な睡眠のためのものなのに、あいにくそのベッドの上でオレに跨っている高槻はそんなつもりはさらさらないらしい。
 目の前に、しばらく会えていなかった恋人。仕事一段落ついたよー! と連絡をしたら訪問の打診を受けて、二つ返事でオッケーした結果だ。
「仕事お疲れ様」
「ありがとう……? もしかしてヤるまでのカウントダウン始まってる?」
「うん」
 うん、じゃねえんだよなあ!? 思わずそう叫んでしまったオレに、高槻は「お前ようやく繁忙期抜けただろ。もうちょいしたら今度は俺の方が忙しくなるし、まあ、今のうちに」と涼しげな顔で言う。そして、今日は俺が上がいい、と続けた。
 現在時刻、午後九時。確かに、事を始めるにはいい頃合いである。
 なるほどこいつの意図は分かった。高槻の言う通り最近忙しかったし、前回と前々回はそんなオレに気を遣ってこいつが下をやってくれたからこの言い分は分からないでもない。でも。
「いやいやいや、今から!? 今からすんの!?」
「それ以外の状況に見えんのか? お前」
「や、あのですね、オレ今やっと仕事終わったとこっていうか、夕飯食べてないっていうか」
「おっまえマジで目ぇ離すとすぐ飯抜きやがって……俺が作ったやつは? 作り置き冷蔵庫に入れといただろ」
「まだ一食分あるけど作業がノって食べ忘れてたり……」
 い、言いたくなかったなーこれ……! 案の定、高槻は少ししゅんとした様子だった。繁忙期で高槻の店に食べに行く暇もなかったんだけど、そしたらこいつはわざわざ料理をオレの家の小さな冷蔵庫にめいっぱい詰めてくれたのだ。全部レンチンで済むやつ。一食分ずつ小分けにしたおかずと、冷凍の白米。至れり尽くせりだった。食事が美味しくて繁忙期も頑張れた。それなのにオレはこうやって普通に飯を食い忘れるっていうね……。
「だ、だから今食べるって! 今!」
 流石に申し訳ないなと思ったのでそう主張してみたのだが、「これが終わったら飯作ってやるから出来立て食えば?」と当たり前のように言われる。
「マジで? やったー……ってそうじゃない!」
 危ない危ない、流されるところだった。高槻の作る飯はそれはもう魅力的ではあるんだけど、だからこそ先に食いたくない? っつーか、冷蔵庫に残ってるやつ自分で食おうとしてるだろ。ダメだよ、オレがちゃんと食べるから。
 オレは、さっきから上からどく様子のない高槻を物珍しい気持ちで観察した。どうやら本気で今からヤるつもりのようだ。
 たぶんうっすらバレてるんだけど、オレ今日昼飯食ったの夕方の四時半くらいなんだよね……。だからまあ、今我慢できないくらい空腹かって言われたら全然そんなことはない。食えって言われたら食えるし、もうちょい我慢しろって言われたら普通に待てる。だからこそ高槻も、『これが終わったら』なんて言ってきたのだろう。全てお見通しなのだ。
 うーん、どうしよう。正直、八割くらいその気になってる。恋人にここまで積極的にお誘いされて、ぐっとこないわけがない。高槻から誘ってくるって割とレアだし尚更。
 高槻は、オレがしたいのを察して誘ってくれることは多いけど、自分がしたいからという理由で誘ってくることは殆どないのだ。いつだって人のこと優先で、オレはそういうのがちょっと心配だったりする。たまには自分の欲を大事にしてあげてほしいなって思ってる。今がそのときなら、遮るようなことはしたくない。
 でもそれはそれとしてこんな風に乗っかられると身動きとれないんだよなあ……ただでさえ腕力では敵わないし。マジでどうしようかな。
 そう思案していると、オレの手首を掴んでいた高槻の手が離れていく。かと思えば妙に真剣な目で見つめられてどきっとする。
「気分じゃないなら、ちゃんと言って。別に無理強いしたいわけじゃない」
 ……ここでこういう言い方する奴だから、逆になんとしてでも叶えてやりたくなるんだよな。狙ってやってるなら策士だけどたぶん素。普段はきっちり人間関係計算してるくせにこういうとこだけ素。つくづくずるい男だ。
 ねえ高槻、オレはさ、恋人にそんな健気な態度でお誘いされたらすぐその気になっちゃうよ。お前のことが大好きだからね。
 高槻の何がずるいって、十中八九オレがその気になってるのを分かってて敢えて確認しようとしてくるところ。だってこいつだったらもっとスマートに、なんとなくセックスの雰囲気を作るなんて造作もないはず。実際、オレがヤりたいなーと考えていると高槻はそれを敏感に察して、特に何も言葉にしなくても流れを作ってくれる。恥ずかしながらオレはそれに乗っかるだけのことが多い。
 なのに、高槻って自分がそういう気分のときは分かりやすく行動で示す。なんでだろ。うやむやに始めたくないからかな。敢えて口にすることで断るタイミングを作ってくれてるのかな。今更相手に気を遣って誘いを断れないなんて関係性じゃないから。
 そんなのはさー……ちょっと、優しすぎるんじゃない?
「オレ、お前に無理強いされたとか思ったこと一度もないよ。……ここまで言っても不安?」
「……ふ。そりゃよかった」
 高槻は、きっと意図的にオレの後半の台詞に反応しなかった。不安、なんだろうな。別に信用されてないとは思わない。そこを疑うような段階はとっくに過ぎた。これはこいつの性分。難儀な性格だなとは思うけど、直せるようなものでもない。だからオレは、こいつの不安ごと気持ちを受け入れてやりたい。
「高槻が渾身のお願いしてくれたらすぐその気になっちゃうんだけどなぁ」
 わざとからかうような声音を作ると、高槻はまた笑った。オレの考えてること、全部分かってくれてるみたいな風に見えた。その表情に見入っていると、ほんの少しだけ距離が近付いて、オレたち以外誰も聞いてないのに内緒話みたいな囁き声。吐息混じりに高槻が言う。
「……遥、だめ?」
 それは、僅かに甘えるような響きを持つ声だった。正真正銘オレが相手のときだけしか出さない声。普段のこいつは目元の印象が少しだけきついんだけど、こういうときは本当に柔らかくて優しい表情をする。何もかも甘くなる。
「だ、……っダメじゃねえー……なんなのお前、そこまでしろとは言ってない……」
「注文多いな」
「ごめんなさいね!」
 ある程度は覚悟していたはずなのに、簡単に想像を超えてくる高槻は満足そうにオレの目尻にキスしてきて、それがまた様になっていたので思わず顔を手で覆ってしまいたくなった。
 高槻は、かっこよすぎてたまに直視できない。もう出会ってから十年経つのに、今でもふとした瞬間にこいつの顔がとてもきれいなのを実感する。
 それがなんだか悔しくて自分から唇を合わせた。湿った舌が隙間から入り込んできて、歯列や上顎を丁寧になぞっていくのに背筋が震える。相変わらずお上手なことで。心の中で茶化していないと快感に意識が引っ張られそうだった。
「ねえ、終わったらとびきりおいしいご飯作ってよ」
「それはもちろんそのつもり」
 最後のささやかな抵抗も完璧に受け止められて、今度は悔しさよりも幸福感の方が強くなる。『もちろん』って言ってもらえるのが嬉しい。そっか、オレにとびきりおいしいご飯作ってくれるの、『もちろん』なんだ。
 じわじわと喜びを噛み締める。もう何度も経験しているはずのことが今日も新鮮な幸せを生んでくれる。
 優しくしてよね、って言ってみようかな。
 きっとまた『もちろん』って言ってくれるんだろうな。
 そんなことを考えていたら、「何。口元緩みすぎ」と笑われた。そんな緩んでる? でも仕方ないじゃん、お前のせいだよ。お前が理由なら、緩んでたって別にいいよ。
 返事をする代わりにまたキスをした。口が触れ合ったその瞬間から気持ちいいのが不思議で、とても嬉しかった。

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