羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


「と……」
「と?」
「と…………智久……さん」
 あっどうしようこれ明らかに間違えた。友達の距離感ではない。絶対に違う。
 言った瞬間後悔するだなんて世話がないが、口から出てしまったものは仕方ない。せめてもの抵抗で「な、なんでもない……すまない……」と言ってみる。なんでもないなんてことはないのに。
 奥はしばらく黙っていた。かと思えば噴き出して、「お前、走った後より顔赤い」と囁くような声を落とす。それが驚くほど優しい声音だったものだから、余計に恥ずかしくなってしまった。
「どうしたんだよ急に」
「うう……下の名前で呼んだら仲がよさそうな感じがするなと思ったんだ……」
 まったく答えになっていない呻きだったのに、奥は嫌な顔ひとつせずにおれの話を聞いてくれる。有難いやら自分が情けないやらである。
「別に名字で呼んでても仲のいい奴はいいだろ。っつーか、もしかして気にしてた?」
「す、少しだけ……奥はおれのこと、下の名前で呼んでくれるだろう? だからおれもそうした方がいいかと……」
 奥はまた笑った。なんだよ、そんなに笑うことないじゃないか。
「んな無理に呼ぶことねえって。俺はなんつーか、打算もあるし」
「打算?」
「お前のこと下の名前で呼ぶ奴殆どいないだろ、この学校で」
「え、ああ……それは、そうだね。おまえくらいだと思うよ」
 この学校でというか、そもそもおれのことを下の名前で呼ぶのは家族くらいのものだ。おまけに呼び捨てとなると、父と――あとは、たまに母方の祖父。このくらいだろうか。
 それを考えると、おれのことを一番名前で呼んでくれているのは奥なのかもしれないな。
 この学校は、それこそ小学校や中学校からの内部生同士だと、男女間でも普通に呼び捨てで呼び合ったりしているけれど……やっぱり、おれがあまり気軽に楽しく喋れるタイプではないんだろうな。下の名前で呼んでもらえるくらい親しい友人関係をこれまで築けてこなかった、と言ってしまうとあまりにも悲しいので、それは考えないようにする。べつに、悪印象を持たれているわけではない。……はずだ。そう思いたい。
「おい、また何か余計なこと考えて落ち込んでねえ?」
「な、なんでもないよ」
「ふーん? ならいいけど。……なんかさ、他の奴らがしない呼び方って特別感あるだろ」
「うん……」
「俺はそういうのがよくてお前のこと下の名前で呼んでんの。お前はお前で好きなように呼べばいいから」
 そういうの。特別感が欲しい、という解釈でいいんだろうか。
「奥は……そういえば、下の名前で呼ばれていることも多いよね」
「そうだな。女子相手だと殆どそうかもしんねえわ。名字で呼び捨てにしてくる奴も多いけど」
 その理由はなんとなく分かる。「奥くん」は同じ音が重なるため発音しづらいのだ。それなら、ということで「智久くん」と呼ぶ女子はかなり多い。まあ、それを言うなら「智久さん」も発音しづらいし、なんなら「奥さん」が一番言いやすいのだが……。
「じゃあ、おれが何か、他の誰も使わないような特別な呼び方をするのはちょっと難しいかもしれないなあ」
「ん? それは平気」
 それはどっちの意味の平気なんだ? と少しだけ不安になったけれど、奥は続けてこう言った。「お前が呼んでくれるだけで、別にどんな呼び方だろうと特別になるから」
「……そ、れは、言葉の通り受け取ってもいいのか?」
「言外の意味とかねえから素直に受け取って。なんつーか、まあ、特別な奴が呼んでくれるなら全部特別なんじゃねえの」
 奥の言葉はいつも自信と力に満ちている。おれが迷ったり悩んだり、ぐるぐるしている間もまっすぐ前を向いている。奥が奥自身のことを信じているのが分かるのだ。そんな彼に言葉を選ばず「特別」だと言ってもらえるというのは、きっとおれの想像以上に価値のあることなのだと思う。
「そんなふうに言ってもらえるなんて、嬉しいな……」
「マジで? それならもっと早く言っときゃよかったかも。そんな嬉しい?」
「嬉しいよ。おれ、特別仲のいい友達というのがこれまでいなかったから……それがおまえで、よかったなと思う」
 奥は何も言わずにただ笑ってくれた。そんな奥を見ながら、ひとつだけ、僅かな不満を持て余してしまう。
 緊張していただけで、無理していたわけではなかったのにな。
 と、まあ、そのようなことだ。無理するなと言われてしまったのはひとえにおれが口下手なせいだけれど、全然まったく、無理なんかではなかったのに。
 悔しいからこれは黙っておこう。そしていつか、例えばおれと奥の縁がこの先ずっと途切れずに続いたとして、その未来ではもっと上手に名前を呼べるようになっていたい。そして、恰好つけずにさらりとその四文字を舌に載せて、彼の驚く顔を見てみたい。
 ……どのくらい先のことになるやら。でも、奥は急かしたりする奴ではないだろう。
 急かされなくても大丈夫なくらい、この縁が長続きすればいい。
「なあ、そろそろ見回り来そうじゃねえ? 早く帰ろうぜ」
「そうだね。行こうか」
 教室に戻り鞄を取って、並んで歩く。
 時が経ち、今日のやりとりを思い出として語り合うことはあるだろうか。あるとしたらそれは、何年後のことだろう。
 そんな想像も楽しくて、ちらりと奥を見る。なぜだか当たり前のように目が合ってしまって、少し恥ずかしくなってしまったのは――。
 そうだな。これも内緒にしておこう。

prev / back / next


- ナノ -