羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 部活は週に六日ある。
 習い事や家の用事があるから、土曜日は午前中だけとか平日も早めに帰らなければとかいうことも多いけれど――そして何より、そこそこ長い時間を勉強に費やさないとついていけなくなるのでそのために帰ることも多いけれど――それ以外、時間の許す限りは大体学校のグラウンドだ。おれはスプリンターだから、練習時間自体は短い方だと思う。体幹トレーニングなどを含めてもそこまで長時間の練習はしていない。
 けれど走ることは好きだしみんなの練習風景を見ることも好きなので、参加できるときの部活には最後までいるようにしている。練習が終わった後の片付けもそこまで嫌いではないのだ。ただ、素早くできないだけで……。
 おれの手が遅いせいか、何も言わないでいると他のみんなが手伝ってくれようとしてしまうので、有難いが手出し無用だと伝えてある。やるべきことはきちんとやりたい。もちろん、迷惑はかけない範囲で。
 今日も最後までもたもたと片付けをしていたおれは、一息ついてふと違和感に首を傾げた。ほんの少しだけ考えて、そういえば奥がいないな、ということに気付く。今日は確かあいつも残っているはずで、そういうときは部活の終わる頃を見計らっておれのことを迎えに来てくれたりするのが常だ。
 どうしたのだろう。急用でもできて、先に帰ってしまったのだろうか。
 できる限り急いで教室に戻り、着替えて荷物を持って下駄箱を覗きに行くとまだ奥の革靴は残っていた。つまり校内にいるはずだ。教室にいなかったということは、考えられる場所はあと……図書室くらいか。
 人もすっかり少なくなってしまった廊下を歩く。きゅ、と時折上履きが廊下に擦れて音をたてた。図書室は予想通りまだ明かりがついていて、静かに扉を開けると風の通り道ができたのか前髪が持ち上げられ後ろに流れていく。
「奥……?」
 静かに声をかけて、はたしてそこに奥はいた。ただし、おれに気付くことはない。なぜならそいつは、貸出カウンターの中の椅子に座ってすやすや寝ていたからである。普段は司書さんが座っているちょっと高価な椅子なのだが、司書さんがいないときは図書委員の人がよく座っているのだ。そんな椅子の大きな背もたれに体を預けて眠るそいつは、こういうことを言うと怒られそうだが起きているときよりも更に小柄に見えた。
 基本的に、こいつは黙っていると五割増くらいでかわいらしい。顔が。クラスの人にそう言われているのを聞いたことがある。黙っていると五割増というか、むしろ口を開くことで三割減なのだそうだ。
 まあ、おれは起きて喋っているときの奥もじゅうぶんかわいらしいと思うのだけれど。こればかりは意見の相違に釈然としないところだ。むしろ対面で喋っているときの方が瞳がきらきらしていて顔面レベルが上がってるんじゃないか?
 そんなことを考えつつ、さすがにこのままにしておくわけにもいかないだろうと奥へと近付く。「奥、迎えに来たよ」そう言って軽く肩を叩くと、僅かに眉根が寄って、やがてぱっちりと目が開いた。どうやら寝起きはいい方らしい。羨ましい限りだ。
「んん、津軽……? 部活終わった?」
 一瞬どきっとしたけれど、すぐに「終わったよ。おまえの靴が残っていたからまだ校内にいるかと思って探しに来たんだ」と返す。奥はあくびを噛み殺して伸びをした。
「はー……ねっむ。悪いな迎えに来させちまって」
「いつも迎えに来てもらっているから……ふふ、今日は反対だね」
 奥も「そうだな」と笑ってくれて、なんだかくすぐったい気持ちになる。おれはいつも迎えに来てもらってばかりで、待たせてばかりで、そのことを申し訳なく思っていたけれど――おれだってたまには、迎えに行く側をやってみたかったのだ。待っていてもらえるから一緒に帰っているとかではなくて、もし奥が用事で遅くなったならそのときはおれが待って、それで一緒に帰りたいなと思っている。
 そんな風に思えるくらいにはおれにとって奥は大切な友人だったし、奥もそうやって思っていてくれたらおれは嬉しい。
「よっし……遼夜、帰ろう」
「うん」
 歩きつつ、またひとりでに笑みがこぼれた。呼び方がちゃんと元に戻っていたからだ。
 奥は基本的におれのことを下の名前で呼ぶ。というか、ある日を境に呼ぶようになった。けれど、さっきみたいにきっと無意識で、たまに名字を呼ばれることがある。まだ慣れていない……ということなのだろうか。
 おれはそれがかなり嬉しかったりする。だってつまり、奥はわざわざおれのことを「下の名前で呼ぼう」と思って呼んでくれているということだからだ。奥が自分でそう決めて、それを続けてくれているということ。
 名字で呼ばれるのがちょっと苦手だなんて、一言も漏らしていないのに。
 べつに呼ばれることそのものが苦手なわけではなくて、おれのことを「津軽遼夜」ではなく「津軽家の嫡男」として見てくる人のことが苦手なのだ。だから奥が呼び方を矯正する必要はないのだけれど……おれのためにそれをしようと思ってくれたことがとても嬉しい。
「奥、ありがとう」
「ん? なんだよ急に。俺何かしたか?」
「うん……いつもありがとう、って思ったんだ。改めて」
 なんだそれ、と奥は笑った。やっぱりこうしておれと対面で喋ってくれているときの奥が一番好きだな。
 そしてふと思う。おれも、下の名前で呼んだ方がいいだろうか? と。
 奥は奥だ、と思う気持ちもあるけれど、友達と下の名前で呼び合うのはなんだか親しい感じがするし。ちょっとした憧れもある。何より、奥なら許してくれそう……だと思う。
 奥はおれの少し先を歩いている。歩くのも食べるのも速い奥である。きっと一人で歩くときはもっと速いんだろうな、とまた奥のさりげない優しさを感じる。
 こうして当たり前のように歩調を合わせてくれる人が、一体どれだけいるだろう。
 少しだけ急いで歩いて、奥の隣に並ぶ。「っと、悪い。歩くの速かったか?」「そんなことないよ、大丈夫」ともひさ、と勢いのままに言ってしまおうと思っていたのに、その四文字は喉につっかえて出てこなかった。なんだか妙に緊張してしまう。
 おれはよほど変な顔をしていたのかもしれない。奥が首を傾げている。ただ下の名前で呼んで、仲良しの実感を自分の中で増したかっただけなのに。うまくいかないものだ。こんなところまで不器用でどうしろと言うのだろう。もっと器用に生きていけるようになりたかった。
 いよいよ奥は立ち止まってしまって、そうなるとおれだって勝手に進むわけにはいかない。不必要に心配そうな表情をさせてしまうのも嫌だ。
 おれは、意を決して口を開いた。

prev / back / next


- ナノ -