羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 もしお仕事までにまだお時間あったら少し喋りませんか、と嬉しい提案をされて、二つ返事でベンチへと移動した。マリちゃんのさっきの笑顔の意味、なんなんだろ……。そういえば、初見だと姉弟全然似てないなって思ったけど、さっきみたいなどこか含んだところのある笑い方は少し似てたかも。
 夕暮れ時の公園は、小さい子たちも帰ってしまって静かだ。風が草木を揺らす音が聞こえる。
「セツさんは、よくこの辺りお散歩されてるんですか?」
「えっと、仕事の前に時間のあるときだけ……せっかく教えてもらった場所だから」
 マリちゃんは俺を見て、目を細めて笑う。こちらに伸ばされた手が優しく俺の手を握って、そのことに心臓が跳ねた。「この時間は滅多に人は通らないですよ」爪の縁をゆっくりなぞられる指先の感触に必要以上に集中してしまいそうになって、慌てて唇を噛む。もしかしてマリちゃんはこうやって手を撫でるのが好きなのかもしれない。これまでしてきたどんなセックスよりもこちらの方がよほど恥ずかしく感じるのはどうしてだろう。
 要するに、何をするかじゃなくて誰とするかってこと……なのかも。たぶんね。
 脈拍の速さを自覚する。丁寧に触れられるのはまだ慣れない。別に乱暴にされたいわけじゃないけど、こんなにあからさまに大切にされるのはくすぐったいのだ。俺、ここまでしてもらえるほどご大層な人間じゃないよ……とか言ったら、マリちゃんに怒られるかな。
「セツさん」
「ん? どうしたの?」
 マリちゃんは俺の手を握ったままはにかむ。
「実は、ここでセツさんをお見かけしたの、今日が初めてではないんです」
 まさかの告白に俺は思わず「えっ」と声をあげてしまう。初めてじゃないって、でも、それってつまり……。
「セツさん、前はすぐ離れていってしまわれたのでお声がけする暇が無くて……」
 嫌な想像ほどよく当たる。俺が前にマリちゃんとお姉さんを見て、咄嗟に隠れてしまったことにマリちゃんは気付いていたのだ。そういえばマリちゃんは俺と違ってかなり視力がいい。俺が気付けたならマリちゃんが気付けないことはないということなのだろう。
「ご、ごめんね。マリちゃん一人じゃなかったから声かけたら迷惑かなって思って……」
「そんな、とんでもない。むしろ、セツさんとお話するチャンスを一回分逃してしまって少し残念だったんです」
「……ほんと?」
「嘘なんてつきませんよ」
 ぎゅ、とほんの少しだけ力のこもるマリちゃんの指先。嬉しくなってしまう。体温が一気に上がるような心地だ。そんな俺に、マリちゃんは重ねて不思議な問いかけをしてきた。
「セツさんも、ほんとうですか?」
「え?」
「おれが一人ではなかったから、お声がけいただけなかったんでしょうか」
 う。別にそれは嘘じゃないんだけど、本当のことかと言われると確かにちょっと微妙かも? 正確ではない、というか。だって、もしマリちゃんと一緒にいたのが例えば暁人や大牙くんだったら、きっと声をかけていた。俺の知らない子だったから――俺の知らない女の子だったから、躊躇った。
 どきどきしつつも平静を装ってマリちゃんの様子を窺う。だって、なんでこんなこと聞いてくるのかよく分からなかった。分からなかったからその後に続いたマリちゃんの言葉は俺にとってかなり意外で、そして、恥ずかしすぎるものだったのだ。
「おれは……もしかしたら、妬いてくださったのかもしれないなと考えていたりしたんですが」
 囁くような声だった。どくどくとまた鼓動が速くなっていく。でも嫌な感じはしなかった。マリちゃんの声がとても優しかったから。
「……だめですね、嫉妬させて喜ぶなんて。でも、嬉しくなってしまったのはほんとうの話です」
「マリちゃんは……俺が嫉妬したら嬉しいの? 鬱陶しくない?」
「ん、んん。嬉しいというか……いや、嬉しいのもほんとうです。でも、一瞬でも不安にさせてしまったんだとしたらそれはいやだなって思います」
 どうやらマリちゃんは、公園内でうろちょろしていた俺を見かけた後、俺に連絡をしようか迷っていたらしい。ちゃんと説明したいけどもし俺があの公園にいたことを隠そうとしていたとしたら連絡できないな……なんて。マリちゃんらしい、優しすぎる迷い方だった。
「直接お会いできたので、思い切って白状してみました。というか、おれ、あなたのことを鬱陶しいだなんて思ったこと無いです」
 信じてくださいね、と笑顔を向けられて思わず謝ってしまったらまた笑われた。うう、笑いどころじゃない……これ絶対真剣に謝らなきゃいけないところだから!
「ごめん、つい隠れちゃった……盗み見みたいなことしてほんとごめん」
「おれも姉さんも気付いていたので盗み見ではなかったですよ。大丈夫です」
「それ大丈夫じゃなくない!? そっか、お姉さんも目がいいんだね……」
「そうですね、色々と敏いひとなので……ああ、でも、あなたのことはおれの方が先に見つけました」
 そんな、ちょっと得意気にしないでよ。可愛すぎるから。
 ふと思いついて、触れ合っている指先同士をそっと絡めてみる。マリちゃんはほんの少し俯いた。恥ずかしそうに。
「さっき、少しだけ姉さんが羨ましかったんです」
「え? なんで?」
「もう成人済みなので。あなたの作ったカクテルをすぐにでも飲めるなんて、羨ましいじゃないですか。おれの方が先に約束したのに……」
 気付いてしまった。もしかして、嫉妬心を見せてくれているのだろうか。俺が一方的にもやもやしないように、敢えて言葉にしてまで。ちょっと珍しい拗ねたような口調も普段だったら絶対にしない感じだ。
「……拗ねてるマリちゃん、可愛いね」
「ふふ、そうですか? セツさんもさっきからずっとかわいらしいですよ」
 ダメだ、耳まで熱い。このままだと仕事に行きたくなくなってしまう。もうだいぶ、このままこの子の隣にいたい気持ちでいっぱいだけど。
 きっと顔は真っ赤だった。しどろもどろになりながら、出勤時間が迫ってきていることを告げる。名残惜しげな表情が嬉しい。別れを惜しんでくれることに安心する。俺もだから。
 マリちゃんがそっと周囲を見回して、ほんの一瞬、ぎゅっと正面から俺のことを抱きしめてきた。「セツさんの次のお休みの日まで我慢します。お仕事頑張ってくださいね」丸みのある低い声だ。たまらない。
 俺は仕事で毎日たくさんカクテル作ってるけど、それでも、「大好き」って気持ちを込めて作るのはマリちゃんにだけだと思うよ。だから、マリちゃんが成人するの楽しみにしてる。
 そんな風に、言いたいことを色々考えていたのが全部どこかへ飛んでいってしまった。どきどきして、熱くて、夢みたい。
 次に会えたときに言って覚えててくれるかな。
 やっぱり今すぐ言った方がいいかな。
 あと一分だけ待ってくれ、と俺は誰に言うでもなく念じる。あと一分、六十秒でどうにかこの心臓の煩さを落ち着かせて、目の前の恋人を喜ばせることのできるとびっきりの口説き文句を考えたい。
 大好き。大好き。大好き。
 この子と一緒にいると、俺の中、そればっかりだ。

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