羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 残業が続くと、手作りの食事が恋しくなるものだ。
 今日は珍しく二時間ほど早く退社することができたので、『まだ店開いてる?』と高槻に連絡をしてみることにする。俺は好きなことを仕事にしたし第一志望の会社に入社できたけれども、それはそれとして長時間労働は疲れるのだ。実家に帰って食わせてもらうことも考えたが今日はがっつり肉が食いたい。
『来るなら開けとく』
 そんな短い返信が届いた。無駄足になったら困ると思って事前連絡をしたのだが、気を遣わせてしまったかもしれない。ほんの少し申し訳なく思いながら歩調を速める。『ありがとう』と送り返すのも忘れずに。
 なんというか、高槻は周囲の人間のために自分の時間を使うことを厭わない奴なのだろうと思う。尽くし体質……というやつ。まあ本人はそんな風には思っていないのだろうが。きっと、あいつが「このくらいならできるからやっとくか」って思ってることはあいつのキャパの大きさがそれを可能にしているというだけのことで、普通の奴にしてみれば「え、そんなことまでやってくれんの?」という感じなのだ。人並みよりも大分気が利くというのも手伝って、あいつは他人の大体の要望を先回りで叶えることができる。
 同じだけのものを返してもらえることなんて殆ど無いだろうに。
 例えば高槻が何かを望んだとして、それを叶えてやれる奴は一体どれだけいるだろう。

 駅から徒歩二分という好立地の店に到着すると、下の看板はクローズになっていた。あーやっぱり……と思いつつ階段を上って、ドアベルを控えめに鳴らす。
「いらっしゃいませ」
 おそらくもうすっかり片付けも済んでいたのであろう店内で、そいつは食器をテーブルに並べているところだった。「悪い、待たせた」「いや別に。どうせこの後ケーキの仕上げするし」こいつもなんだかんだ労働時間長いよな、自営業だし。中学生の門限みたいな時間に閉まる店だと思ってたけど、会社員が基本実労八時間と考えるとそれでもかなりオーバーしてるのか。
「何食う?」
「あー、肉がいい……更に我儘を言うなら牛肉……」
「お前そればっかかよ。野菜食って待ってろ」
 いいんだよ、実家ではほぼ魚と野菜なんだから。
 野菜食ってろなんて言われたからてっきり草になんか洒落たドレッシングがぶちまけられて出てくるかと思いきや、茄子とパプリカと玉ねぎの……あー、あれだ、ラタトゥイユ? が出てきた。形容しがたい味の草を出されるよりこっちの方がいいな。ひんやりと冷たくて、この季節にぴったりだ。美味い。
 また別の皿には、これまたひんやりとしたオムレツ――野菜が大量に入ったやつ。あと、汁気たっぷりの桃に生ハム。タコのマリネ。なんだか今日は前菜が多いな。全部美味いわ。
 ビールが欲しい……と思いつつおとなしく夕飯を待つ。詳しいメニューは分からないが、まあ美味いものが出てくるのは確実だろう。耳を澄ますと、音楽もとっくに切れた静けさの中、微かに調理の音が聞こえてくる。
 食べながらおそらく十分弱が経過して、戻ってきた高槻は、洋風の店にはまったく似つかわしくない丼をテーブルの上に置いた。温かい湯気と、食欲をそそる醤油の甘辛い匂いが立ち上る。これは……明らかにメニューに無い料理だろう。たっぷりの米に牛肉に豆腐、そしてしんなりしたネギが添えられた丼。すき焼き丼だ。タレの匂いの中に香ばしさも感じるのは、ひょっとすると肉を炒めてから軽く煮立てているからなのだろうか。
「生卵いるか?」
 場違いすぎる光景に一瞬返事が遅れた。欲しい、と言うとすぐに器に入れられた卵が出てくる。黄身のみだ。おまけにわざわざカラザが取り除いてあった。至れり尽くせりである。
「なんかすげえ予想外のものが出てきた……いただきます」
「どうぞ。お前メニュー見てねえだろ、今日の店のディナーは鶏肉。だから急遽これになった」
「あ、俺が牛肉がいいっつったから? ごめん、もしかしてこの肉明日の分とか?」
「俺の休みの日の夕飯になる予定だったもの」
「いやそれは断れよ! なんなんだお前……びっくりするわ……」
 確かにメニューは見てなかったけど。なんつーか、あれだ、チキンのソテーとハンバーグどっちか選べるならハンバーグがいいなくらいの気持ちだった。まさかそんな店の在庫ですらねえ肉が出てくると思わないだろ。
 高槻は、おそらくディナーの残りなのであろうチキンのトマトシチューを持ってきて俺のふたつ隣の席に座る。こいつもこれから夕飯らしい。
 ここまできたらもう美味しく完食するくらいでしか感謝を伝えようがないと思ったので、素直に肉を口に運ぶ。一口食べて、うわっいい肉だ……ということが分かった。いい肉、脂が甘いんだよな……。自分で料理するときはあまり肉のランクなんて気にしないのだが、やはりいい肉は美味い。
「……美味いっす」
「そりゃどーも。仕事お疲れ様」
「お前もな。なんか我儘聞いてもらって悪い」
「喫茶店に来て『今日は無性にカツ丼食いたい』とか言ってくる奴よりマシ」
 八代……なんてことを……。
「……ん。ついでにもうひとつ我儘言うんだけど」
「ああ? 今度はなんだよ」
「ビールください……」
 さっきからずっと飲みたかったんだよ。
 若干食い気味に伝えると、高槻はちょっと目を瞠って、そして僅かに眉を下げて笑った。
「慌てすぎ」
 それが、思わず、といった風な笑顔だったから驚いた。声音が存外優しいことにも。八代や遼夜が相手ならともかく、こいつが俺の前でこんな風に笑うのは珍しいのだ。こいつは赤の他人以外には基本無表情で、黙ってると遼夜とは別ベクトルで冷たそうに見えるのだが、今はそういうのもまったく無い。
「飲み過ぎるなよ」
「うわっ、それは八代に言ってやれよ……」
 頭の中で金額を計算しつつ相槌を打つ。メニューに無いものが出てきたときは一体どのくらい払えばいいんだろうか。

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