羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 今年はとかく暑かった。例年よりも早く梅雨明けし、容赦ない日差しがこれでもかと照りつける。高校の頃はろくに冷房設備も無い剣道場で汗だくになりながら部活をしたものだが、今考えると色々と正気ではなかったな、と思う。あの環境がよしとされていた理由が分からない。
 だが、こういうときはその経験も少しくらい役に立つ……のだろうか。
「ぅあ、っつーい……」
「明日になったら修理の人がきてくれるから……それまでうちわで凌ごう……」
 上半身はタンクトップ一枚で、それすら鬱陶しそうにぱたぱたとさせている拓海を目に毒だなと思いつつ、俺は首筋を伝う汗をぬぐった。夏真っ盛りだというのにまさかのエアコンが故障という非常事態なのだ。朝、寝苦しさで目が覚めてドライをかけようと思ったらリモコンがきかなかった。電池を交換しても駄目。慌てて業者に連絡するも、来てもらえるのは最短で明日の午前十時。ひとまずうちわ代わりのレジュメ入りクリアファイルで扇いでいるが、効果のほどは微妙だ。
「っあー! 暑い! ……叫ぶと余計暑い!」
「風呂に水張るか……?」
「アイス食お、アイス。確かまだ残ってたはず」
 冷凍庫を開けた拓海は、「うわっ涼しい……中身無けりゃ開けっ放しにするのに」と言いつつアイスを手に戻ってきた。シャーベットタイプのアイスなのでこの暑さにぴったりだ。半分こにして咥えると、体の中から冷えていく感じがして心地いい。
「んうー……俺までアイスと一緒にどろどろになりそう。なあ幸助、どっか出かけねえ? クーラーきいたとこ行こうぜ」
「ああ、それこそ水族館とかいいかもな……」
「決まりな。干からびる前に行くぞ!」
 今日は平日だが、大学は夏休みだ。いつもより行楽施設も空いているだろう。そうと決まればいそいそと準備をする。なるべく風通しのいい素材の服を選んで、ぬるい水道水で顔を洗ってから外に飛び出した。

 外は、直射日光とアスファルトからの照り返しでとんでもない暑さになっていた。こんな炎天下に外で基礎練させられているかもしれない運動部が心配になる。どうか空調設備の整った場所で運動してほしい。じりじりと頭が熱を吸収していくのが分かって、すれ違う女性の日傘が羨ましくなった。帽子でも被ってくるべきだっただろうか。
「分かってたけど外はもっと暑いなー。駅に近い部屋借りられてよかったよな」
「そうだな。大学からも近いし」
 今住んでいるところは、ルームシェア可のものを俺が見繕って、一緒に内見をして、二人が気に入った中から最終的に拓海が勘で決めた物件だ。なかなか上手い役割分担ができていたんじゃないかと思う。駅から徒歩五分程度で、お互いの大学まで電車で二十分弱くらい。大きめのスーパーが近くにある。あと、薬局に小さな本屋も。遊ぶには心もとないが、暮らすにはいいところだ。実家も電車で二時間ちょっとの場所なので、帰ろうと思えば日帰りですぐである。
 水族館の最寄り駅までは俺も拓海も定期圏内。電車内の涼しさに少し生き返った心地だ。電車に揺られ、平日といえどそれなりの人ごみを抜けて、水族館に到着した。
「高校のときにさ、お前と一緒に金魚見に行ったの思い出すな」
 チケットを買って入場すると、こっそり拓海がそんなことを耳打ちしてくる。初デートのときの話だ。いや、正式な恋人同士ではなかったから、あれをデートと称するのは少し違うかもしれないが。
 俺はあのときかなりの緊張を抑えつけて拓海と二人っきりの空間に臨んだし、どうやったらもっと拓海に楽しんでもらえるか、そんなことばかり考えていた。好きなひとに対して必死になることができる自分は、結構好きだ。今日だって、めいっぱい楽しんで帰るつもりでいる。
 ひんやりとした施設内を練り歩く。ぼんやりと薄暗い水族館は、全体的に青く光が浮かび上がっていてそれだけでもかなり綺麗だ。拓海は魚の泳ぐ景色を遠目に眺めて、水槽をひとつの作品として楽しむタイプらしい。俺はというと、水槽横に設置してある魚の学名や説明書きが気になって仕方がない。ついじっくり読んでしまう。
「幸助、何読んでんだ?」
「カジキマグロってマグロじゃないらしいぞ」
「は?」
「カジキマグロは俗称で、カジキはむしろマグロよりスズキに近いらしい」
「へえー、そうなのか。紛らわしいな。っつーかお前、文字読むの好きだよな……調味料の成分表示とかもよく読んでるし……」
「読める文字で何か書いてあると気にならないか?」
「それ読んでるお前の顔のが気になるわ」
 歯を見せて笑う拓海に、じわりと喜びを感じる。たぶんこいつは和風ドレッシングの成分表示になんてかけらも興味が無いのだろうが、それでも俺の話を適当に流したりはしないから。
 水族館に来るのは久々で、それこそ拓海と一緒じゃないとなかなか来ない場所だったのでつい熱中して見て回ることになった。カラフルで小さな魚、ガラス越しだとちょっと間抜けな顔に見えるエイ、照明の光でぼんやりと透き通るクラゲ、他にもいろいろ。突発的に来たので特にショーのやっている日程ではなかったことだけが惜しい。今度はきちんと調べて来よう。アザラシやペンギンのぬいぐるみが大量に置いてある売店も見つつ、ふと気がついたらとっくに昼過ぎになっていた。
 二人とも空腹を覚えていたので、食事も水族館があるのと同じ施設内で済ませることにする。ランチタイムぎりぎりの店内は小さな親子連れや女性同士の姿が多く、俺たちのように男だけで来ているのはなかなか珍しいらしい。
 拓海はパスタ、俺はカレー……と思ったがデート中に匂いのきついものは積極的に食べるべきではないと思い直し、魚介のスープパスタにしておいた。高校の頃に拓海から色々とレクチャーを受けたにもかかわらず数年経った今でもまだ拓海のようにスマートにはできないが、昔の俺なら何も考えずにカレーを食べていたと思うので拓海の教育の成果は出ていると思う。少しの気遣いが快適な空間を作るのだ。
「……拓海」
「ん? どうした?」
「今日の夕飯カレーにしないか」
「ぶはっ、お前昼飯食ってる最中にもう夕飯の話してんの? いいぜ、チキンカレーな」
「ありがとう」
 途中までカレーを食べる気満々だったから、結局そんなことを言ってしまう。うーん、食い意地の張った発言をしてしまった……。拓海は笑ってくれたのでよしとしておこう。
 食事を楽しく終えた後は、やはり暑い帰り道を二人で歩く。電車に乗って、最寄り駅に着いて、スーパーでカレーの材料を買って。クーラーは壊れてしまったが、かなり充実した一日だ。むしろ壊れたからこそかもしれない。たまにはこういうのも悪くないな。
「はー、楽しかった。水族館久々だったな」
「うん、いつ行っても綺麗だ。今度はショーがやってるときに行こう」
「だなー。にしても帰ったらまたクソ暑いかと思うと……」
「何か暑いのが紛れることができればいいんだけどな」
 そんなことを言ってみて、言い切って、ふとやましいことを思いついてしまって歩調が緩む。そんなつもりは無かったのに、思いついてしまったらまるで最初からそのつもりでいたような感じに聞こえてしまってなんだか恥ずかしい。
 こんな暑い日に暑い部屋で運動とか、悪趣味だ。
 自然と下がってしまっていた視線を上げると、拓海がこちらを見ていた。顎を伝う汗が西日に焼かれている。きらきらと、光っている。
「――エロいこと想像した?」
「…………し、した……」
 軽い足取りで近づいてきた拓海は、俺の手を取って歩き出した。これはどういう意味なのだろう。やけに楽しそうな横顔は――そういうこと、なのだろうか。
「平日だと周りに人いないからいいよな」
「そう、だな……」
「早く帰ろうぜ。幸助ももう待てねえだろ?」
 どう返事をすればいいか分からなくて、ひたすら足を動かした。家はもうすぐそこだ。クーラーの壊れた、今はけっして居心地のよくない場所。
 それなのに、玄関の扉をくぐるのが待ちきれない気がして俯いた。夏の影は濃い。ぱたりと汗が落ちて、コンクリートに染みを作ったそれはたちまち見えなくなった。

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