羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 なだれ込むようにして玄関に入った。お互いに息が上がっていて、靴を脱ぐのももどかしい。優しくベッドに横たえられた俺は今更気付く。マリちゃんはとっても力が強いみたいだ。脱力した俺をベッドに運ぶというのは、弟には無理なことだった。
 俺を運んでくれたマリちゃんがそのまま体を離そうとするので無性に悲しくなる。ぽろぽろと、精査していない言葉が口からこぼれて止まらない。
「マリちゃ……どこいくの、いかないで」
「っセツさん、」
「やだ、行っちゃやだ……マリちゃん、怒った? もう会えない? ちゃんとできなくて、ごめんなさい……」
 目の前の体に縋りつきたかったけど、それだけはぎりぎり我慢した。ごめんね、こんなこと言われても困るよね。発情期に入ったΩと同じ空間にいるとか、拷問に等しいだろう。
 マリちゃんは、俺のことを安心させるように優しく笑う。「……セツさん、落ち着いて。連絡のできるご家族はいらっしゃいますか? 弟さんは?」たぶんこれはαとして百点満点の対応なのだろう。理性的で、正しい。でも今の俺にその正しさは眩しすぎた。俺とマリちゃんとの間に感じる温度差が悲しかった。俺は黙って首を横に振る。
 この子の優しさにたくさん触れて、それで、たくさんこの子のことを好きになった。そのはずなのに、純粋にそれだけかと聞かれるときっと言葉に詰まる。だって初めて会ったときから特別だった。それってちゃんと俺の意思なんだろうか。Ωの性に振り回されてはいないだろうか。俺は自分の中にあるこの好意を信じたい。でもマリちゃんに信じてもらえるか、分からない。
 もしαとかΩとかそういう括りが無かったら、ここにあるのはマリちゃんに対する純粋な「好き」という気持ちだけだと胸を張って言えたかもしれないのに。
 俺はマリちゃんに手を伸ばす。驚いたような顔で差し出された手にそっと触れる。指先だけ。
「マリちゃん……あのね、好きだよ。大好き」
 熱にうかされた気分のまま想いを吐き出した。「いつも優しいところ、とか、何に対しても丁寧なところ……とか、ぜんぶすき。ありがと、きれいなものたくさん、教えてくれて……」俺、ほんの一年くらい前まではこんな世界消えてなくなれって思ってたんだよ。今じゃそんなの嘘みたいに輝いて見える。二十数年積み上げてきた燻りを、マリちゃんはあっさりひっくり返してくれた。綺麗なものは身近にいくらでもあるんだって教えてくれた。
 初対面で「抱いてほしい」みたいなこと言っちゃったけど。でも、信じてくれるかな。
 俺は、αじゃなくて、マリちゃんのことを好きになったんだよ。
 指先だけで熱を共有する。こんなに苦しいのに不思議と安心した。それと同時にほんの少しだけ心を落ち着かせることができる。「ごめん、しんどいでしょ……外出て、いいよ。俺、一人でどうにかできるから……」精一杯強がって触れていた手を放す。すると。
「っおれだって……おれも、すきです。あなたのこと、一目見たときからずっと」
 ぐいっと上半身を引かれたかと思えばそのまま腕の中に閉じ込められて、その腕の力強さに思わず我慢できなかった声が漏れた。どこに顔を向けても甘い匂いがして全然体に力が入らない。というか耳元で囁かれて完全に腰が抜けた。え、やば、マジで息してるだけで勃ちそうなんだけど。
 マリちゃんは俺の首筋に顔を埋めて、ため息をつくように「……甘い」とこぼした。その言い方が信じられないくらい色っぽくて泣きそうになる。初めて会ったときよりも、いくらか低い声だった。きっとこれから更に低く声変わりしていくのだろう。
「……ほんとうは、もっと早くこうして抱き締めたかったんです。でもそれはだめだと思いました。番はΩからは解消できないですし、一生を左右しますから。……それに、αという性を言い訳にしたくはなかった」
「い、言い訳……?」
「おれでなければならない理由が……欲しかった。他のαで代替可能なのはいやです。おれだから好いてもらえたのだと思いたかったし、あなただから好きになったのだとはっきり言えるようになりたかった。だから時間をかけました」
 そんな。それは、だって。
 まるでとびっきりの愛の告白みたいに聞こえる。
「……俺じゃダメってわけじゃ、なかった?」
「逆です。おれがあなたに相応しいかどうか、あなたの一生を委ねる価値がおれにあるかどうか、あなたに見極めてほしかったんです」
 ごめんなさい、おれのわがままでつらい思いをさせてしまって。マリちゃんはそんな風に言った。俺はというと全然脳みそが追いつかない。もしかして二人とも同じ気持ちだったの? 最初から?
 俺の一方通行なんかじゃなかったってこと?
「ね、マリちゃん……俺が最初、『抱いてくれないの』って言ったとき……マリちゃんは、なんて言ったんだっけ」
「『婚前交渉はだめですよ』って言った気がします。でも……ふふ、結婚を前提におれとお付き合いしていただきたいのですが、前向きに考えてくださいますか?」
 一も二も無く頷く。体中が、この先のことを想像して期待に震えている。「俺の運命……つかまえた、って思ってもいい?」声まで震えたのは恥ずかしかったけど、マリちゃんが優しく笑ってくれたから俺の失敗なんて些細なことだ。いっそう強く抱き締められて、俺の耳に届いたのはとても柔らかい響きだった。
「――ええ、あなたがそれを望んでくださるのなら」
 今この瞬間にマリちゃんの存在以上に望むものなんて無いよ。
 言葉を紡ぐのももどかしくてマリちゃんにキスをした。正直もう限界通り越してて、この暴れまわる熱をどうにかして鎮めてほしい。唇が触れた瞬間ぐらりと体が傾いで、ああ、押し倒されたんだと遅れて気付く。
「頑張って我慢しています、って……おれ、ちゃんと言いましたよ。……すみません、たぶん途中で止められないです」
 いいよ。そんなのとっくに覚悟してるから早くきて。そう返事する前に、今度はマリちゃんから唇を塞がれる。ゴムの場所教えた方がいいのかなあ……なんて、俺は悠長なことを考えながらマリちゃんの頭をそっと撫でた。

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