羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 マリちゃんは足が速かった。いつも穏やかでにこにこしているから、なんとなく、走るのも歩くのもゆっくりなのかなって思ってた。でもそうじゃないみたいだ。そういえば、海に行ったときに体を動かすのは好き、って言ってたし走るのも得意なのかも。
 手を引かれて雨の降る中を駆け抜けて、家に着いた頃にはマリちゃんのワイシャツはぐっしょり濡れていた。俺が謝罪やお礼の言葉を口にするよりも先に、マリちゃんは焦ったような表情で「セツさん、お洗濯物があるっておっしゃってましたよね」と言ってくる。
 ひさしの陰に干してあった洗濯物は、幸い袖や裾の部分がほんの少し濡れただけに留まっていた。全て取り込んで部屋干しに切り替えて、俺はほっと息をつく。マリちゃんも手伝ってくれたんだけど、正直なところ洗濯物なんかよりマリちゃんが濡れてることの方が大問題だ。
「マリちゃんごめんね、今タオル取ってくるから!」
 顎を伝う雫を手の甲で拭っていたマリちゃんをリビングに残し、俺は洗面所へと直行する。ふと思い立って風呂のお湯張りボタンを押しておいた。午前中に掃除はしておいたし、十分もすれば寒くない程度の嵩にはなるだろう。なるべく大きくてふわふわのタオルを持っていってマリちゃんの頭を覆うと、「セツさん、ご自分のは取ってこなかったんですか」と微かな笑い声がした。
「だ、だってほら、学ラン貸してくれたから……マリちゃん、たくさん濡れちゃったね、ごめん」
 俺は学ランを被っていたせいか、体の前面以外は濡れてない。代わりに学ランは水を吸いまくってるんだけど。どうしようこれ……。今からクリーニング出したら明後日間に合うかな?
「あなたが濡れていないならよかったです」
「ほんとごめん、タクシー呼べばよかったね」
「それだときっと待っている間にお洗濯やり直しになってましたよ」
 た、確かに……。でも、マリちゃんがこれで風邪引いたりしたらそっちの方が嫌だ。
「というか、あまり謝らないでください。謝ってほしいわけではないですから」
「あ、ありがと……」
 俺は、髪の毛の水気をタオルで押さえるように取っているマリちゃんが、なるべく気負わず済むようにさりげない口調で言う。
「あのさ、もしよかったらお風呂入ってってよ。体冷えちゃってるでしょ。俺、その間に制服乾かしておくから」
 濡れたシャツもドライヤーを数分あてれば乾くだろう。マリちゃんは慌てたように、そこまでしていただくわけには、なんて遠慮してしまっている。んー、まあ、確かに風呂借りるってちょっとハードル高いかな。……でもさ。
「あの……初めて会ったとき、お風呂貸してくれたでしょ。それの恩返しというか……ここを逃すと俺が個人的にお風呂貸す機会なんて一生なさそうというか」
 マリちゃんはちょっと驚いたような顔をした。「もしかして、ずっと気にしてらしたんですか」いやそういうわけじゃない……こともないけど! 俺は恩を忘れない人間だってこと!
「ほら、早くしないと風邪ひいちゃうから……っくしゅっ」
「……おれよりもセツさんの方が風邪ひきかけてませんか? 手、つめたいです」
 今のくしゃみはたまたまだから。風邪じゃないから。ほんとだってば。
 マリちゃんはふわりと笑った。そして、「じゃあ、一緒に入りましょうか」となんでもない顔で言った。
「えっ」
「おれは、セツさんに先に入ってほしいですけど……セツさんもおれに対して同じように思ってくださっているみたいですし」
 お互い譲るつもりがなさそうなので、と気軽にこちらの内心を言い当ててくるマリちゃんは、行儀よく俺の返事を待っている。俺はというと、マリちゃんに風邪をひいてほしくないという心配が八割、あとは下心の二割を抱えて、か細い声で「はい……」と言うしかないのだった。

 俺の家の風呂場事情。実はそこそこ広い風呂場だ。俺くらいの身長でも、余裕で足を伸ばして入れるくらいの浴槽の大きさがある。小さいテレビを置ける場所が用意されてて、暁人なんかはたまに半身浴だとか言って長時間風呂場にこもってたり。そしてジャグジー付きだ。俺はあまり活用したことは無いけど。
「あの、窮屈だったら俺すぐ出るから……」
「だめですよ。ちゃんと温まってからにしてくださいね」
 軽く体を洗って湯船に浸かっている俺。正直言って緊張してる。マリちゃんにこの風呂を使ってもらうのは初めてのことじゃないけど、一緒にってハードルが高すぎる。
 マリちゃんちのお風呂はそれこそ旅館の内風呂――家族風呂みたいな、少人数で入れる温泉って感じの広々とした内装だから、誰かと一緒に入るの慣れてたりするんだろうか。平然としてるから、俺ばっかり意識してるみたいで恥ずかしい。
 海だって一緒に行ったんだから……露出度はあのときとほぼ一緒だから……と頭の中で念じて平静を装う。そういえば暁人が小さい頃は、よく一緒に風呂入ってたっけ。一度、暁人のシャンプーの泡を流すときにうっかり声かけを忘れて、泡が目に入ってギャン泣きされたことがあった。全然泣き止まなくて焦ったな。俺が悪いのは分かってる。それでも『そこまで泣くか!?』って思ってしまった。まあ、目に入った泡を流そうとして顔にじゃぶじゃぶお湯ぶっ掛けたから余計に泣いたんだけど……。
「何か、いいことがありましたか?」
 懐かしさに頬が緩んでいたようで、やんわりとそれを指摘される。俺は慌てつつ素直に白状した。
「あ、えっと……暁人が小さい頃は、一緒に風呂入ったなって……ちょっと、懐かしくて」
 ちらりとマリちゃんの様子を伺うと、体育座りのような姿勢で膝の上で腕を組んで、俺のことを見ていた。当然目が合う。優しく微笑まれて、ただそれだけのことがこんなにも恥ずかしい。
「ほんとうに仲がいいですね」
「まあ家にほぼ二人っきりだったからねー……協力しないと生きていけなかったし。それに、マリちゃんのとこもお兄さんお姉さんと仲良さそうじゃん?」
「そうですね、仲はいい方……だと思っています。そういえば、セツさんと初めてお会いしたときくらいから昔みたいに兄さんと喋る機会が増えたんです」
「あんまり喋らなくなってたの?」
「ええ、まあ……なんというか、おれの家はただでさえ分家の中でも本家との距離が近いので。兄さんとあまり近しくしていると親戚が色々とうるさかったんです。小学生の頃、それで一度注意されたことがあって。『立場を弁えろ』と」
「う、うわあ……」
 思わず呻いてしまった。いとこのお兄さんと仲良くするのにいちいち親戚のお許しなんていらないでしょ……。というか、小学生に対して何言ってんだ、何を。
「親戚の顔色を窺って兄さんを傷つけてしまったので……もう、間違えないようにしたいと思ってます」
 つまらない話をしてしまってすみません、とマリちゃんは穏やかな表情のままで俺に謝った。別に、全然、つまらなくなんてなかったよ。俺が出会うより前のマリちゃんがどういうことを考えてたとか、どういうことしてたとか、そういうの沢山知りたい。
「マリちゃんが他の人には言えないようなこと、俺の前でなら言えるんだったら……嬉しいなって思うよ。頼られてるみたいな感じする」
「おれはどちらかというとセツさんにもっと頼ってほしいです」
「いや今でも十分頼ってるからね!?」
 マジで際限なくなっちゃうから! 年上の威厳のようなものは既に無いと思う。っつーか初めて会ったときからそんなもん無かったわ。今日みたいにさー……さりげなく雨から庇ってくれたりとか、ほんとにカッコよすぎるから……。
 風呂場なので思いの外声が反響して、俺は身を縮こまらせたまま湯船に沈む。お湯の透明度が高すぎて不用意に視線を動かすことすらできない。
 こんなことなら入浴剤でもぶち込んでおけばよかったかな、と考えをめぐらせて、次点の案を思いついた。
「そうだマリちゃん。この風呂ジャグジーついてるんだよ。試したことある?」
「ジャグジーですか? 無いですね」
「うん。ほら、これ」
 壁のパネルを操作すると、五秒もかからずボコボコ音を立てて空気が湧いてくる。途端に水面が揺らめいて、お湯の中が見通せなくなったことに安心した。
「わあ、温泉みたいです」
 大きな気泡に手を当てて物珍しそうにしている様子を見て微笑ましくなってみたり。ほんと、やましいこと一切抜きで、綺麗なことだけ一緒にできればいいのにな。
 こういう風にしていると、この子は俺の弟と同い年なんだよな、というのを実感する。俺が仕事を始めたときにはまだ小学生。ずっと生活の面倒を見てきたような年の頃の男の子を好きになって、気持ちを預けて、拠り所にしてみたりもして。受け入れてもらえてるの、恵まれてる。
「……また暁人のこと考えてました?」
「え、なんで?」
「なんだか嬉しそうだったので」
 違うよ、暁人のことはちょっとだけだよ。大体マリちゃんのことでいっぱいなのに。
 俺が弁解をするよりも先にマリちゃんはそろりと腕を伸ばして、俺の頬に触れた。湯船で温まった手は熱いくらいだった。
「今、あなたの隣にいるのはおれですよ」
 ――なんて、兄さんの話をしてしまったおれが言えた話でもないかもしれませんが。
 恥ずかしがっているのか、拗ねているのか、色々な感情の混ざり合ったような声音が浴室に溶けた。ボコボコ、ゴボゴボと気泡の弾ける音がマリちゃんの小さな声を掻き消していく。
 あ、ダメ。
 それ、もっと聞きたい。

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