羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 特に用事の無いようなときでも万里に話しかけるようになってしまった。そのたびに笑ってこちらを見てくれるから、腹の奥がむずむずする。万里はいつも丁寧で、俺の話にも優しく相槌を打ってくれて、穏やかな時間を共有できる。
 これまで俺が上っ面だけでも付き合ってきたような奴らとは完全にタイプが違う。一度も染めたことのなさそうな黒髪、綺麗な箸遣いや言葉遣い、ふとしたときの手の所作、全て。何より、万里のゆっくりとした、柔らかい声音が俺は好きだった。聞いていると落ち着く。考えたくないことを考えないでいられる。
「雪人の髪はきれいだなあ」
 暖かくなって、屋上で弁当が食えるくらいの日和になった。コンクリートが日差しで温まってぽかぽかしている。そんな昼休みに、万里は唐突な褒め言葉を投げかけてきた。
「髪……? こんなん、別に珍しい色でもねーのに。若干痛んでるし」
「そうかな。今みたいなときとか……ほら、太陽の光を集めたみたいにきらきらしているよ。やっぱりきれいだ」
 そいつは、俺の『反抗の証』のような髪の色を光のようだと言って笑った。親が鬱陶しいとか夜遊びするのに都合がいいとかもっと自分のことを見てほしいとか、そういうごちゃまぜの感情によって変えてしまったものを綺麗だと言ってくれた。
「実はずっと思っていたんだ。きれいだなあって」
「ずっと?」
「うん。どこにいても見つけられるだろう? だからかな、電車の中で会ったときも、すぐに雪人だって分かったよ」
 なんだか恥ずかしいことを言われまくっている気がする。もうなんとなく分かるようになってきたけど、こいつ、マジで他人に対するプラスの感情を伝えるのに躊躇がねーな。なんかこう、普通のクラスメイトに言われたらちょっと引くわーってこともこいつが言うと受け入れられる。や、だってさ、男の髪が綺麗とか普通は言わねーもん。しかも男同士で。うわっキモッで終わるでしょ。
 なんでだろう。こいつの言うことなら、素直に聞ける。
 素直に聴けるようになった。
「実はね、最初の頃はちょっと近寄りがたいなあって思っていたんだけど……」
 正直すぎる物言いに少し笑ってしまう。万里は真面目だし、どちらかというと大人しい雰囲気だからな。
「あ、もちろん今はそんなこと思ってないよ。弟思いで、すてきなお兄さんだなあって思う」
「ふ……なにそれ。お前だってちっちゃい子供の相手上手じゃん」
「でもおれは弟だから」
「えっ」
 驚いた。物腰がしっかりしてるし、何より人に何かを譲る姿勢がとても自然だったから、下にきょうだいがいると思っていた。そういえばこいつの身内について、部活で有名なのだと噂で聞いてはいたけれど……そうか、年上か。よく考えたら当たり前だ。
 万里は末っ子なのか。漠然と、末っ子というのは甘やかされて育ってるみたいなステレオタイプのイメージを持っていたから、勝手に申し訳ない気持ちになった。
「姉が一人いるんだ。あと、いとこの兄も。近しいのはそのくらいかな……」
「お前って上のきょうだいに全然世話かけてなさそー」
「ふふ、そんなことはないと思うよ。守られてばっかりなんだ。……少しでも力になれたらいいなって思ってるんだけどね」
 恥ずかしそうに笑ったそいつがほんの少しだけ寂しそうにも見えたから、俺は思わず「大丈夫だろ」と言った。俺も一応『兄』だけど、もし弟がそんな風に思ってくれていたら、それだけで嬉しいと思う。それに、自分のために何かをしようとしてくれたんだなというのは、人間、意外と分かるものなのだ。それが近しい誰かならなおさら。
 考えて喋るのってあんまり得意じゃないけど、万里に元気になってほしくて思ったことを少しずつ伝えた。万里は黙って俺を見つめて、真剣に聞いてくれている。
「――俺んとこ、普段あんま親いなくて。父親も母親もずーっと海外にいるから弟の面倒は殆ど俺が見てるけど、それでも別に、弟のこと嫌になったりしねーよ。あー、ほら、この間みたいにカサ持ってきてくれたりするし……だからお前も、できることだけやればいーんじゃね。きっと喜ぶよ」
 つい、そんなことを言った。万里は驚いたような顔をしている。
「おれに話してよかったのか? そんな、ご家庭のこと……」
「……なんで。俺は、お前にだったら話してもいいかもって思ったんだけど」
 ちょっと拗ねたような口調になってしまったのが余計に恥ずかしくて俯いた。こいつだったら別に、俺の事情を知ってもむやみにそれを抉ってこないと思ったのだ。暁人と仲良くしてくれて、俺の手の傷を気に掛けてくれるような優しい奴だから。興味本位での同情なんて間違ってもしないと信じることができたから。
「……ごめんね。実は、暁人から偶然話は聞いていたんだ。親御さんが普段いらっしゃらないってことだけ……おれが聞いていいことではないと思ったから、聞いたことを黙っていた」
 やっぱりな、と思った。こいつが薄々俺の家の事情に気付いているんじゃないかってことと、事情を知ってもむやみに踏み込んできたりしないってこと、二重の意味で。
「謝んなって。暁人なんて言ってた?」
「初めて会ったとき、今日の夕飯はお兄さんの作ったカレーだって言っていたんだ。早く食べたいからお兄さんを迎えに来たんだって……それで、お料理上手なお兄さんすてきだねっておれが言った。そしたら……」
 暁人は、父親も母親もずっと仕事でいないから兄が毎日料理をしている――というようなことを言ったらしい。
「怒らないであげてね。自慢したかったみたいなんだ、『優しいお兄さん』のこと」
「怒んねーよ。ちょっと恥ずいけどな、別に大したことしてるわけじゃねーし」
 最低限の家事で精一杯だ。細かいフォローは全然できてない。暁人も、何か不満に思っていたりするんじゃないかと少しだけ不安だった。
 一瞬だけこぼれてしまった不安は、そのまま落ちていくかと思いきや丁寧に掬い上げられる。
「頑張ったときは、『頑張った』って言っていいと思うよ」
「え?」
「だって暁人、いつ会ってもとても楽しそうだ。雪人が毎日欠かさず頑張っているから、暁人はあんなに楽しそうに笑っているんじゃないかな」
 誰かのために何かができるってほんとうにすごいことだよ、と万里は笑った。その言葉をゆっくり噛み締めて、不覚にも泣きそうになる。ずっと、『頑張ってる』って言いたかった。言えなかった。自分で自分を慰めてるみたいで惨めに感じたし、俺は、頑張りを誰かに認めてほしかったのだ。自己満足なんかじゃないと言われたかった。世の中にはもっと大変な奴も苦労してる奴もそりゃいるんだろうけど、だとしても俺は自分なりに頑張って、最善を尽くせていると思いたかった。
 どうしてこいつは、俺の一番欲しいものが分かるんだろう。
 涙目になっているのを気付かれたくなくて、視線を逸らしたまま「……ありがと」と言った。顔も見ないで、失礼だっただろうか。でも今視線が合ったら間違いなく涙腺壊れる。
「……このままだと不公平だから、おれの話もしようかな。聞いてくれるか?」
「うん……」
 ありがとう、と静かに言ったそいつの話は、聞いた噂と俺の想像から大きく逸脱はしていないものだった。
 万里の家は古くから続く地主の家系で、地元だと割と名前が知られているらしい。名前を言っただけでどこの誰だかバレてしまうくらいの規模だ――と万里は苦笑いしていた。小学校と中学校は地元の学校だったものの、常に見張られているような居心地の悪さを感じていたとのことだ。
 あまり親しい友達がつくれなかった、と寂しそうな声が落ちた。
 わざわざ電車を乗り継いでこんなところまで、どうしてだろうと思っていたが。まさかこんな事情があったとは。親しい人が作れないのに常に誰かに見られているというのはそれはもうとんでもないストレスだろう。
 なんでも、万里とそのお姉さんが地元から離れた学校に通うために、従兄の人が犠牲になった……とかで。万里はずっと、そのことを気に病んでいるらしい。
「あー……俺が、代弁していいことじゃねーかもだけど。そのいとこの兄貴? 別に気にしてないと思う」
「そう、かな」
「ん……っつーか、もし俺だったら、弟のためなら頑張れると思う、から……。そりゃ全然平気とは言わねーけどさ。それでも、弟が楽しそうにしてたらそれでいーやって思うよ。なんだろ、報われた……みたいな」
 その場のノリだけで喋るのは割と得意なんだけど、こうやって真剣な話題についてちゃんと考えて意見を言うのは苦手だ。それでも伝えたくて、下手でもいいから少しでも万里が元気になればいいなと思って、必死で言葉を紡いだ。
 どうしてこんな、他人に対して必死になってるんだろう。
 もうとっくの昔に全部諦めたと思ってたのに。
 でも、こんな風に必死になれる自分がまだ残っていたことが、少しだけ嬉しい。
 余計なことを言ってしまったかもしれない。不快にさせたらどうしよう。そんな不安が一瞬だけよぎって顔を上げる。けれど万里は優しい表情のままで、俺の指先をそっと撫でた。まるで、もう傷が無いのを確かめるかのように。
「ありがとう。やっぱりおまえは優しいね」
 そんなことない。こんなの、お前に貰った分の十分の一も返せてない。もっとマトモなこと言えればよかったんだけど。こんなぐちゃぐちゃな言葉にも『ありがとう』って言ってくれるこいつは、どこまで優しいんだろう。
 また泣きそうになってしまって必死で我慢した。
 触れた指先が、熱かった。

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