羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 ――あ、甘い。
 そう思った瞬間、ずきりと舌に痛みを感じてびっくりしてマリちゃんから離れてしまった。そして思い出す。そういえば俺、口内炎できてたんだった。
「セツさん……?」
「え、あ、ごめん」
 マリちゃんは純粋に不思議そうな顔をしている。よかった、嫌な思いさせちゃったらどうしようかと思った。
 とは言え何の説明もしないわけにはいかないので、口内炎ができちゃって……と正直に白状する。今日はキスもおちおちできないのかという現実にちょっと悲しくなってしまった。俺の都合で振り回してるんだから、俺が悲しむのもお門違いって感じだけど……。
 マリちゃんは、自分までちょっと痛そうな表情をして「お大事になさってくださいね」と言った。
「ほんとうは、お医者さまに診ていただいたほうがいいとは思うんですが……」
「たかが口内炎くらいで行くのもね……あーでも、作ったもの味見するときしみるのは困るかも」
 一番困るのは仕事のこと。でも、一番残念に思うのはマリちゃんとキスできないこと。自分のとんでもない思考回路に焦る。俺、こんな欲求不満だったっけ?
 ちょん、と俺の指先に何かが触れる。視線を動かすとそれはマリちゃんの手だった。
「早く治りますように……」
 その優しい響きはじんわりと心に染み込んでいった。なんていうか、言っちゃえばたかが口内炎なんだよ。時間が経てば治るものだし、そりゃ一時は痛いかもしれないけど我慢できるし。全然大したこと無いって自分でも思う。でもマリちゃんはこうやって心配してくれる。口内炎とか、あかぎれでちょっと手に傷がついたとか、そんな些細なことでも丁寧に扱ってくれる。
 何か返事しなきゃ。心配してくれてありがとう、こんなの全然大したことないけど、気を遣わせちゃってごめん、でも嬉しい。色々言いたいことが頭の中でぐるぐる回って、口から飛び出したのはそのどれでもない言葉。
「――治ったらいっぱいキスしていい?」
 きょとんとしたマリちゃんに、一瞬遅れて自分が何を言ったのか認識した。――いやいや何言っちゃってんの!? もっと他にいくらでも言うことあっただろーが!
 やましいことを考えてたのがバレてしまってどうしようもなく恥ずかしかった。耳といわず顔中熱い。「ご、ごめん。なんでもない……」なんでもないこと無いんだけど、これくらいしか言葉が見つからない。呆れられたかな。がっつきすぎて引いた? なんで余計なことばっかり言って肝心なことを伝えられないんだろう。俺、そんなに喋るの下手じゃないと自分では思ってたんだけどな。
 逃げ出したい気持ちを頑張ってこらえて俯いていると、ふっと明かりが何かに遮られた。それにつられて、上を向く。
「え」
 ちゅ、と可愛らしい音がして、鼻の頭に唇の感触。
「……ふふ。今は唇以外で手を打ってください」
 悪戯っぽく笑ったマリちゃんは、俺の髪を掻きあげて額に、目元に、頬に、ゆっくり唇で触れてきた。一呼吸置いて、耳と、首筋。髪の毛がくすぐったくて思わず身じろぎする。いやもう、あの、全然それどころじゃないけど。全然それどころじゃないんだけど!
 さっきの恥ずかしさなんて全部どこかに吹っ飛んだ。マリちゃんの行動ですっかり上書きされてしまって、一瞬舌の痛みすら忘れてた。なんで、どうして、いつの間にこんなカッコイイことできるようになったの? こんなスマートにキスされちゃったら、俺の持ってる年上っつーアドバンテージなんてほぼ無いようなもんじゃん。
 俺が硬直している間に、マリちゃんはこたつの中に入り直した。そして、俺の手を取って指先にキスをする。
「あの……えっと。いやなことは、いやって言わないとだめですよ」
「嫌じゃないから!」
「わっ」
 ご、ごめん急に大声出して。でも嫌じゃないのはほんとだよ。
 よく見たらマリちゃんもほっぺたがほんのり赤かった。あ、もしかして、俺のためだから慣れないことしてくれた? マリちゃん、むやみにキスで不意打ちしてくるタイプじゃないもんね。
「……マリちゃんこういうことできるんだね。びっくりした。元気づけてくれたんでしょ? ありがとう」
「こ、これで元気になれます……? いや、確かにセツさんが元気になってくれたら嬉しいなと思いましたけど、なんだかおれ思い上がってますね……」
 恥ずかしいです、と両手で顔を覆ってしまったマリちゃん。なんでそんな風に言うの、俺すごく元気になったよ。どんな薬よりも効果あったよ、痛いの忘れたもん。
 どこから伝えていいか分からなくて、俺はぎゅうっとマリちゃんを抱きしめた。「マリちゃん大好き」最終的にありきたりな一言になってしまったけれど、ちゃんと伝わったかな。
「……おれも、すきです。ほんとうは、セツさんみたいに恰好よく色々してみたかったんです」
「カッコよかったよ、すごく。でもあんまりカッコよすぎたら俺の心臓もたないしもっとゆっくりでいいからね。ほら、まだ心臓ばくばくいってる」
「ふふ、そうなんですか? 実はおれもなんです」
「……そこで素直に同意しちゃうの可愛いんだよね……マジで……」
「セツさんは恰好いいし、可愛いし、優しいですよ」
 ぎゅうぎゅう、とマリちゃんの腕が俺の背中に回った。こたつの一辺を分け合っているからちょっと身動きするとこたつの脚にすぐ体をぶつけちゃったりする。そしたらココアがこぼれるかもしれない。こぼれたら困る。……そんな、マリちゃんにおとなしく抱きしめてもらう理由を頭の中でいくつも考える。でも実際は、「好きだから」ってだけでいいのだ、きっと。意地を張らなくても、この子は俺の望みを叶えてくれるから。
「治ったらまた会いたい……って言ったら、どうする?」
「それはもちろん、会いに行きますよ」
「キスしたいって言ったら?」
「嬉しいのでセツさんがしてくださるまで待てないかもしれないです」
「そういうずるい言い回しどこで覚えるの……あーあ、ほんと早く治さないと」
「おれが我慢できている間にお願いしますね」
 そんなこと言って、どうせ俺の方が先に我慢できなくなる。マリちゃんはきっと、我慢のできない俺に『ほんとうにもう大丈夫ですか? 痛くないですか?』って言ってくれるタイプなのだ。
 マリちゃんはココアにもう一度口をつけて、ちょうどいい温度になった、と喜んでいる。可愛い。こんなに可愛いのに、さっきみたいに急にカッコよくなるから油断できない。
 ……さっきの、目元とか額とかに軽くキスするやつ。あれ、嬉しかったから別に口内炎じゃないときもやってほしいな。
 さてどんなタイミングで切り出そう……と意味も無く両手でマグカップを包む。じんわりと伝わってくる温かさに、マリちゃんの唇の温度を思い出してしまったりして俺はまた顔が熱くなるのを感じた。
 とりあえず、このあともう一回、してくれるかな?

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