羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 朝起きたら口の中に違和感を覚えて、なんだろうと思っていると続いて感じたのは痛みだった。鏡で確認してみたところ――どうやら、口内炎ができている。
 舌の先にぽつりと白っぽい膨らみ。歯で触ってみるとずくずく痛む。病院に行くほどではないけれどまったく無視できるような痛みでもない……という嫌な感じだ。俺、こういうの気になっちゃってダメなんだよね。口の中が痛いと食事も億劫だし、ちょっとでも何か当たると痛くてテンションがた落ち。
 ビタミン不足だったりしたのかな、それとも知らない間に噛んじゃってたりしたのかな、と考えてみたものの、原因が分かったからといってこの痛みが消えるわけではない。嫌な気持ちを抱えつつ顔を洗ってうがいをしてリビングに行くと、「うわっ」と暁人から失礼すぎる声がかかった。
「なんだよ人の顔見た途端に」
「いや、お前朝から機嫌悪すぎなんだよ……」
「えっうそ」
 そんなに顔に出ていただろうか。思わず顔をぺたぺた触っていると笑われた。「今日、万里と会うんじゃねーの? んなブッサイクなツラしてたら心配されるぞ」う、うるせー! 悪かったな顔に出やすくて!
 気を取り直し、食パンにチーズを乗せて焼いて温かいコーヒーを淹れる。パンを一口齧った途端、こんがり焼けたパンで舌をざりっと擦ってしまい思わず口元を押さえた。……うう、想像より痛い……。
「虫歯でもできてんの?」
「いや、口内炎……やばい、焼いたパンが軽く凶器なんだけど」
「フランスパンじゃなくてよかったじゃねーか」
「そういう問題じゃ……あーもう、食べるたび痛い」
 もそもそとなるべく口の中を刺激しないようにパンを咀嚼して呑み込む。コーヒーの熱さすら舌にしみて泣きそうになってしまった。全然大したことないって言われちゃうとそれまでなんだけど、だってこれ地味に痛い。なんだかいじめられている気分になってしまう。こういうことってあるよね? 指先をちょっと紙で切ったとか、ささくれが爪の根元の辺りまで剥けちゃったとか。
 大牙くんとどこかへ行く約束をしているらしい暁人を食後に見送って、俺はそっとため息をついた。歯磨きすらしみる。っつーかこれ、何か軽くでも刺激があれば痛い。俺にできるのは、なるべく舌を保護して生活するくらいだろうか。一週間も経てば流石に治るだろうと思いたい。
 あーあ。今日はせっかくマリちゃんに会える日なのになあ。
 せっかく会えるのだから、何の懸念も無く会いたかった。マリちゃんと一緒にいるときに、マリちゃんのことだけ考えたいときに、他の何かに邪魔されるのは嫌だ。
 とりあえずマリちゃんが来るまで舌を安静にしておこう……と心に決めた俺は、洗濯をするべく椅子から立ち上がった。
 あ、そうだ。ちゃんと掃除もしておかないと。


 今日のマリちゃんはマフラーでもこもこだ。ほっぺたに触るとひんやり冷たくて、外の寒さを想像する。マリちゃんが俺の手にそっと触れて、「セツさんはあたたかいですね」と嬉しそうに笑ったので俺まで嬉しくなった。
「外寒かったでしょ。ほら、中入って。飲み物出すね」
「ありがとうございます。お邪魔します」
 もうそろそろ勝手知ったる他人の家って感じになってもおかしくないはずなのに、マリちゃんはいつまでも礼儀正しい。そろりそろりと自分の靴を並べていたので、二人暮らしの家なのに無駄に靴が多くてごめん……という気持ちでマリちゃんを待った。本当はすぐにでもくっつきたかったけど、がっついてるって思われたら恥ずかしい。
 牛乳を無心で温めてホットココアを作り、用意していたお菓子と一緒にこたつに並べる。ふわり、と甘い匂いがした。
「はい、どうぞ」
「いただきます……あれ、このマグカップ新しいですね」
「ん、うん。なんか気に入っちゃったんだ」
 灰色の猫が真っ白のマグカップの隅にちょこんと座っているデザイン。この家の近くに、似た感じの色味の猫がいるんだよね。というか、うっかりその猫に話しかけているのをマリちゃんには何度か目撃されてしまっているのだった。恥ずかしすぎる。
 正直に言うには躊躇われたので「かわいかったからつい」なんて曖昧に誤魔化したのに、マリちゃんは自然な口調で「あのときの猫にちょっと似てませんか?」と笑った。
「あのときの、って」
「セツさんがお喋りしようと頑張っている猫です」
 うわっ、完全に墓穴を掘った! ほんと忘れてほしい……一刻も早く……。マリちゃんが忘れかけたタイミングで再度目撃されちゃう俺がポンコツなのかもしんねーけどさ。なんかもう癖になっててダメ……。
 なんだか正直に言うより余計に恥ずかしい思いをした気がする。俺がそそくさとマリちゃんの対面に座ろうとすると、袖を優しく引っ張られる。
「どうしたの?」
「ええと……もしよければそっちじゃなくておれの隣、いかがですか」
「え、いいの? でも狭いかも……」
 今日は寒いですから、と恥ずかしそうに笑ってくれたマリちゃんにたまらなくなって、俺は言われた通りマリちゃんの隣にもぐりこむ。体の左側があったかい。安心する。
 両手でマグカップを持ってココアの表面をふーふーしていたマリちゃんは、一口飲んでこちらを向いたかと思えば「おいしいです」と顔をほころばせた。
 きゅうう、と心臓が縮み上がる心地がする。こんなに毎日好きって、すごい。笑いかけてもらえるだけで嬉しくなって、たちまち元気になれる。こたつの上に乗せていた手をマリちゃんが優しく撫でて、それだけのことにまた鼓動が速くなった。
「マリちゃん……」
 なんだかもう全然我慢できなくなってしまって、ぎゅっと手を握る。今キスしたらきっと甘い。そんなことを考えながらそっと顔を近づけた。マリちゃんも特に嫌がるそぶりは無くて、俺はそのまま唇に触れる。

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