羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 第一印象をひとつ挙げるならば、『甘い香りのする人』だった。
 後々それはお酒の匂いだったと気付くことになるのだが、今となっては笑い話である。彼は外で飲むときは果実酒だのワインだのなんとなくお洒落そうなものばかり飲むくせに、実は焼酎とか日本酒とかの方が好きだというのは知っている。良くも悪くも周囲の視線や期待のようなものに影響される人なのだ。優しくて繊細で、そういうところは彼の美点だけれども自分を追い詰めがちなところはどうにかすべきだと常々思う。
 昔はよくお酒を飲んでめそめそしていた冬眞くんが『お酒は楽しいときだけ!』とおれに宣言したのはいつのことだっただろうか。やはり好きな人には笑顔でいてほしいので、素晴らしい進歩だと思っている。
「冬眞くん、見て見て」
 おれは、ソファに座る冬眞くんの後姿に話しかける。
「ん?」
「おれ、生まれて初めてお給料を貰ったよ」
 今日は、記念すべき初任給の日だった。会社で貰った給与明細を見せると冬眞くんは自分のことのように喜んでくれて、「お祝いしないとな」なんて言う。初任給の使い道は既に決めている。半分は冬眞くんに生活費として渡して、残った半分のそれまた半分は兄たちに何か贈って、残りで冬眞くんと何か美味しいものでも食べに行くのだ。それでも余ったら貯金しようかな。
 遅くなったけれど、ようやく生活費が払えるようになる。居候させてもらっていたときにかかっていた金額も少しずつ返していく予定だ。これで、冬眞くんの家は名実共におれの帰ってくる家にもなった。「ただいま」と言えるのだ。
 おれは今から二年以上前、冬眞くんと一旦お別れしてからすぐ家との交渉に入った。勝算は十分にあったつもりで、だからおれ自身はあまり気にしていなかったんだが……冬眞くんはそうではなかったらしく色々と気苦労をかけてしまったと思う。でもおれの前では絶対に弱音を吐かなかった。きっと想像もつかない覚悟があったに違いない。
「そういえば、お兄さんは元気?」
「元気だよ。最近子供が産まれてね、おれも叔父さんというわけだ」
「そっか……うう、やっぱちょっと気まずいな」
「どうして?」
「だって……アンタを説得するから! って言いくるめて帰ってもらったのに全然真逆のことしちゃったから……」
 うん? ああ、あのときの話か。だったら心配いらないよ。
「あの人、大体の事情には気付いていたよ。だから大丈夫」
「……えっ!? き、気付いてたって」
「おれがあなたを好きなこととか、あなたがおれを好きなこととか?」
 そう、今回の跡継ぎ問題で最もおれのために心を砕いてくれたのは、あの日一緒に冬眞くんの家についてきてくれた一番上の兄だった。おれよりも十ほど年上で、おれの母親が妊娠しにくい体質だからと途中まで正式な跡継ぎとして育てられていた人だ。真面目な兄である。だからこそおれは、あの人に正式に会社を継いでもらえればと思っていた。
 実際、どう考えてもそちらの方が合理的だったのだ。おれが大学生の頃には既に兄たちは全員社会人で、いわゆる中堅くらいのポジションにはなっていて、何より社員たちによく顔が知られていた。ぽっと出のおれが継ぐよりもよほどいい。
 実はおれ、あの人のことはちょっと苦手だったんだよな。自己主張をしなさすぎるというか……うーん、自分の家にいいように使われているようで不憫に見えた。おれの我儘の皺寄せは大体あの人に向かっていたから、嫌われているだろうとも思っていたし。あの人は常に家の意向の代弁者であって、おれの兄ではないなと感じていた。まあ、今回のことでちょっと仲良くなれたのは収穫だ。他の三人の兄とも、どうにか上手くやっていきたいなと今ではそう思っている。
 母親とは折り合いが悪かったから、せめて血の半分しか繋がらない兄くらいは、と。
 おれの母親としては、ようやく子供を「諦めてもらえた」ところにできた子供がおれだったから、もはや喜びよりは平穏を壊す存在としての意識の方が強かったのだろう。しかし不幸中の幸いで、会社を継ぎたくないと言ったときに全面的に味方についてくれたりもした。彼女はただ平穏無事に暮らしたいだけなのだ。きっと普通の家に嫁いでいたらもっと幸せになれていたことだろうと思う。……うーん、今更仲良くなれるんだろうか? まあ追々だな。
「……『頑張りなさい』って言ってくれたよ。あと、冬眞くんには『弟をよろしくお願い致します』だって」
「うわあああこちらこそ……その節は大変申し訳なく……」
 いつか正式に紹介してほしいと言われたことを伝えるのはもう少し後でいいだろう。案外、おれたちの周りにはおれたちに好意的な人が多いというのを冬眞くんも知るべきだと思う。大切な人と一緒にいたいという気持ちを恥じることなんて何一つ無いのだから。
「そういや、しばらくは一緒の会社で頑張るにしろ、アンタは数年経ったら自分の会社に戻るんだろ?」
「まあ……そうなるかな。そういう約束だしね」
「帰ったらどういう立場になんの?」
「役員――と言いたいところだけど、おれは表立って動く方が向いているようだからなあ。営業として三番目の兄の補佐につけばいいかなと今は思っているよ。取締役くらいにはいずれなるかもね」
「すげーな……マジで雲の上って感じ……」
「……おれが戻らなきゃいけなくなったら、冬眞くんを引き抜いていこうかな」
 冬眞くんはおれの言葉にびっくりしたみたいで目をぱちくりさせている。別に無理強いするつもりはないよ。家でも一緒会社でも一緒だと気詰まりするかもしれないし。適度な距離感が円満の秘訣だよなあ。
「……つまり、コネ入社?」
「うん。……ああでも、うちの会社が潰れたときに共倒れになるのはまずいか」
「え、縁起でもないこと言うなよな」
 リスク管理は大切だよ、冬眞くん。
 話し合う時間はこの先たくさんあるから、今はただ物事が上手く片付いた充足感に浸っていようと思う。驚かせたくて入社まで黙っていたけど、本当は実家を出ることが決まったその日すぐにでも連絡したかった。我ながらはしゃいでいて気持ちが落ち着いていないのが自分で分かったので思いとどまれたが。
 冬眞くんが『卒業もお祝いしたかったな……』ってちょっとしょんぼりしてたから、かなり久々に自分の選択を後悔してみたりもして。優しい冬眞くんは、入社祝いとは別にちゃんとお祝いを考えてくれているらしい。『今年の夏はまたどっか遠出しよう、一緒に』とふにゃふにゃ笑っていた。
 おれが早生まれなことも手伝って片手の指では足りないくらいの年齢差があるけれど、冬眞くんは可愛いな、っておれはいつも思っているのだ。『最近体力の曲がり角を感じる……マジで……』と言っているのが大袈裟でそういうところも好きだ。二十代はまだまだ若いよ。寧ろおれの方が気を遣うべきかもしれない。
 小さい頃から望みは大体叶えてきたけれど、おれの人生で一番の大勝負はきっと冬眞くんに会ったときから始まっていた。
「冬眞くん、今日はシャワーじゃなくて湯船を溜めよう。おれ、掃除をするよ」
「おーありがと。なに、疲れてる?」
「ううん。一緒に入りたいなと思って」
 冬眞くんはおれが突然話題を変えたことにも笑顔で返してくれていたのに、それを聞くと大袈裟なくらい動揺してみせた。顔を赤くして唇を尖らせて、「……この家の風呂、狭いって言ってたくせに」とじと目になる。そんなこと言ったか? 何年も前のこと、よく覚えてるなあ。
 冬眞くんは風呂の「その先」を想像して赤くなったに違いない。微笑ましい限りだ。
「そんなこと言ったかな? 忘れてしまったよ」
「言ったよ、『狭い』って。『二人は無理だ』って……」
「友人とは無理でも恋人となら問題ないだろう。それとも、おれと一緒はお気に召さないだろうか」
 ちょっと意地悪な質問をしてしまった。冬眞くんは慌てたようにふるふると首を横に振って、そのまま風呂場へと逃亡する。ああもう、おれが掃除をすると言ったのに。
 たぶん今頃、初めて致した日のことを思い出しているのだろう。そうだといい。

prev / back / next


- ナノ -