羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 たぶん意識がトんでたのは一瞬だった。オレが気付いたとき春継はまだ息が荒いままで、ああ無理させちゃったかな、体力無いのにオレのために頑張ってくれて可愛いな、って考えてたら我慢できなくてついそいつの頭を撫でてしまう。
「――ん、なんだい冬眞くん……子供扱い、かな?」
「バッカじゃねえの、子供扱いしてたらこんなこと、させないだろ……」
 でもオレに都合のいいときは子供扱いしたい。そんな風に思ってしまう。ああ大人って勝手だ。
 まあ今大人扱いしているかと言われたらそれも微妙で、しいて言うなら恋人扱いというやつ……なのかも、しれない。
 束の間かな。
 どうだろ。オレにも分からないけど。
 自分の中から春継がいなくなる感覚に少しだけまた体が反応する。リンスのせいでべっとべとだ。風呂、もう一回入らねえとな。
「……気持ちよかった?」
「うん。びっくりしたよ。あなたはどうだい?」
「オレも……びっくりするくらい」
 恥ずかしくて語尾が萎んだけれど春継は笑って察してくれた。ありがとう。
「実はこんなにうまくいくだなんて思っていなかったんだが、案ずるより産むが易しとはよく言ったものだ」
 痛くはなかっただろうか? と律儀に聞いてきてくれるところがなんかもう普通に好き……大好き……。オレもまさかこんなに丁寧に触ってもらえると思ってなくて、びっくりするやら嬉しいやら気まずいやらで大変な心境である。マジでやっちゃったんだ……マジか……って感じ。
 自分にがっかりなんだけど、後悔してない。っていうかできない。嬉しくて嬉しくて、まだ心臓がどきどきしている。
「もしかして、また泣きそうになっていないか?」
「そ、そんなことねーし……」
「ふふ、そうかい。可愛いね」
 身をすり寄せてくるのが猫みたいだ。なんだかオレばっかり余裕なくて悔しい気もする。そう考えると、風呂場で叫んでたこいつはかなりレアだったな。声量は元々ある方だけど、むやみやたらと大声をあげるタイプじゃないから。慌ててた感じだったのも珍しくて可愛かったな。
 ぼうっと風呂場でのことを思い返していると心配そうな顔をされてしまった。慌てて弁明する。風呂入ってたときのこと思い出してた、って。
「風呂? ああ、冬眞くん可愛かっ……、……」
「待ってガチで照れるのやめて!? オレまで恥ずかしいだろ!」
「んんん……」
 真っ赤になって両手で顔を覆ってしまった春継はそれはもう年相応に可愛くて心臓が痛い。ぎゅうってなる、ぎゅうって。
 恥ずかしさもどうにか和らいだらしいそいつはひとつ咳払いをして、「さあ、もう一度風呂に入ろう。綺麗にしなくてはね」とこちらに笑いかけてくる。優しく手を引いて、体を支えて、オレを導いてくれる。
 シャワーで情事の跡を綺麗にしてベッドの上も片付けて、「狭い」なんて笑い合いながら並んで寝そべった。お互いに、色々あって疲れているというのが伝わった。でもそれは心地のよいものだった。
「……冬眞くん、疲れただろう? ゆっくりおやすみ」
 小さな明かりの中で春継が微笑むのが見える。正直かなり眠気が襲ってきていたけど、寝たら明日になってしまう。明日になったら春継は帰ってしまう。オレはもう、「ただいま」と言っても「おかえり」と返してもらえない。
「ずっと今日のままならいいのに……」
「大丈夫、二年なんてあっという間だよ。今生の別れでもないのだし、冬眞くんは気楽に毎日を過ごすだけでいい。そうしたらまた一緒に眠ろうね」
「ふ、狭いだろここじゃ」
「ダブルベッドを買えばいいよ」
「ああ、『出世払い』で?」
「そう。出世払い」
「どうやっておうちの人を納得させる気でいんの……」
「それはまあ、おれの手腕次第と言ったところだ。首尾よくいくように祈っていてくれるか?」
 本来ならここで頷いちゃ駄目なんだよなオレの立場なら……と思いつつ頷いてしまう。心の中で春継のお兄さんに謝った。やっぱり諦めきれなくて、ごめんなさい……って。
 自分ではどうにもできない悲しみを持て余す。春継に抱きつくとそれは温かくとけていくような錯覚を覚えた。どうしよう、眠い。寝たくないのになあ。
「春継……」
「なんだい、冬眞くん」
 吐息だけで言った。「ごめんね、好きだよ」って。途端に、さっきまで柔らかく微笑んでいたそいつが僅かに眉根を寄せた。唇が震えている。――泣くのを我慢して、頑張って笑おうとしている顔だった。
 初めて見たよ、それ。
 見ていられなくてそいつの胸に顔をうずめる。意識が薄れていく。泥のように、沈んでいく。
 涙をこぼすのだけはかろうじて我慢した。なんとなく、次に目が覚めたときこいつはいなくなっているんじゃないかな……という予感がする。別れ際に泣いちゃったらまた気を遣わせてしまうかもしれないから、かえってそれでもいいかもしれない。いやでもやっぱ寂しい。我儘だ、オレ。
 すき、と小さく聞こえた。
 それはまるで幼い子供のような、嘘みたいにか弱い声音だった。


「春継」
 はっと目を覚ます。部屋はとても静かで、予想はしていたけれどぽっかりと喪失感のようなものがある。
 のろのろとベッドから起き上がる……と、真っ先に目についたものがあった。目立つ赤。紐で留められたクロッキー帳。
 一枚一枚ゆっくりとページをめくって、最後のページ。昨日見たときは春継の残した短いメッセージのみだったのに、そこには絵が増えていた。
「……はは、やっぱあいつの目ちょっとひいき激しすぎ……」
 描かれていたのはオレの寝顔。昨日オレが寝落ちてから描いたのかそれとも早起きして描いたのか詳しいことは分からないけど、とにかくオレの寝顔がばっちり記録されていた。
 傍らには、見慣れたあいつの筆跡で一言。
『おれのあなたへ、愛をこめて』
 言葉は短くても分かる。この一冊が丸ごとあいつの告白のようなものなのだ。クロッキー帳を一冊埋めるのにはたしてどれだけの時間と労力を使うのか。どれだけの気持ちを込めるのか。そして――どれだけの間オレのことを見ていてくれたか。
 こんなに温かいラブレターにオレは何を返せるだろう。
 やっぱりちょっとだけ泣いてしまって、でも嬉しくて、クロッキー帳をそっと胸に抱く。
 好きになったのがあいつでよかった。あいつだけがよかった。
 ……ありがとう。ほんとに好きだよ。

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