羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 びっくりした。周りに人がいなかったからといってつい触れてしまうなんて、セツさんもさぞ驚いたことだろう。
 親しき仲にも礼儀あり、である。いちいち事前に許可を取れとまでは言わないけれど、驚かせてしまうようなことはしない方がいい。
 なんだかまだ顔が熱い気がする。セツさんの耳があまりにも鮮やかに赤く染まったから、つられてしまった。
 かわいかったな。とても。
 あのときは完全に無意識だったけれど、もし「そういうこと」ばかり考えているんじゃないかとセツさんに思われてしまったら恥ずかしいな……なんて心配になってしまう。家に二人きりのときとかならともかく、屋外だったし。この妙な気恥ずかしさは、思春期だからという一言で済ませていいものなのだろうか。
 誤解を恐れずに言うなら、もしもの可能性を考えたことはある。だって、おれはともかくセツさんはとっくにそういうことを経験しているであろう大人だから、こんな、一から十まで健全で平和すぎるお付き合いでセツさんはちゃんと楽しめているんだろうか……と不安なこともあった。でも、セツさんが何も言わないでいてくれるのはきっとおれにペースを合わせてくれているからなんだろうと思ったから、つい今まではそれに甘えてしまっていたのだ。
 会って、声が聞けて、指先に触れたりして。最初のうちはそれだけで満足していた。でも一緒に過ごす時間が増えるにつれて、あの華奢な体を抱き締めるとすっぽり腕の中に収まってちょっと嬉しいとか、時折セツさんから向けられる甘い視線にむずむずするとか、自分でも感覚の変化がよく分かるようになっていった。
 はたしてこれは『成長』と言えるのか。不思議な気分だ。
 周りのみんなはお互いに同い年の恋人だから、おれのこの気持ちをそっくり当てはめることは難しいかもしれないけれど……それでもやっぱり気になる。おれ、変なタイミングでセツさんに触れてしまったりしていないだろうか。セツさんは優しいから何も言わないでいてくれるだけで、実は内心呆れていたりしないだろうか。きっと好きだからこそここまで気になってしまうんだろう。なるべく恰好いい自分でありたいし、セツさんにもそう思っていてほしい。
 おれが『子供』なせいで、セツさんに我慢させてしまってるとしたら、いやだな。
 恥ずかしながら、恋人というのはセツさんが初めての存在なので色々手探り状態なのは否めない。おれの努力の許す限り丁寧に大切に接しているつもりだけれど、はたしてうまくいっているかどうか。
 人間関係って正解が分からないから難しい。
「万里、今ちょっといいかな?」
 悶々と悩んでいると、障子の向こうから姉さんの声がした。「どうぞ」返事をすると静かに障子が開く。
「お菓子を頂いたから万里にもお裾分けだよ」
「わあ、ありがとう」
 どうやら焼き菓子のようで、姉さんが文机の上にフィナンシェとマドレーヌ、そして一口サイズにカットされた個包装のバウムクーヘンを並べていくのをおれは大人しく見ていた。
「春だねえ」
「え、もう夏では……?」
「季節のことではなくて。ふふふ、若人が青く悩んでいるのを観察するのは愉快だ」
 観察されていたのか……。
「……姉さんは、すきなひとっているんですか?」
「うん? どうだろうね。でも前に、許婚を宛がわれそうになって大暴れしたから相手は自力で見つけないとなあとは思っているよ」
「えええ……そんなことが……」
「というか、わたしは兄さんのことが好きだったんだよ。……幼稚園くらいのときの話だよ?」
 初耳だ。姉さんとそういう話ってあんまり結びつかないな。イメージしづらいというか。
「いやあ、何故かわたしは大叔父様に気に入られていてね。大叔父様の会社の取引先の息子だか何だかを是非に……という話だったのだけれど。美希さんたちが庇ってくださったんだ」
「……もしかして、おれにもそういうお話あったりしました?」
「ちらほらあったね。まあ、勿論本決まりではないし本人の意思が尊重されるよ。大丈夫、きちっとお断りすればいいだけの話さ。うちは所詮分家なのだし……だから、兄さんは少し心配だ」
 ぎくりとした。そうだ、兄さんはもうとっくに結婚できる歳なのだ。「親戚連中も頭が固いよねえ。まだ二十代だよ? あと五、六年放っておいて差し上げればいいのに」と姉さんは苦笑いしている。
「美希さんたちは、中学に入る前にはお相手が決まっていたそうだよ」
「それは……よかったんでしょうか、美希さん」
「さあ? 仲睦まじそうだし結果オーライじゃないかな。結局は本人同士の相性なのさ」
 確かに両親はとても仲良しだけれど。
 やっぱり、一緒にいると楽しくてあったかい……ってだけじゃだめなのかな。おれはセツさんと一緒にいたいけど、それをどう表明すればいいんだろう。
 この関係に、おれはきちんと責任をとれるのだろうか。
「うーん……」
「おや、悩ませてしまったかな?」
「いえ、姉さんのせいでは……おれはもしかしたら、今まで楽しいことだけにしか目を向けてこなかったのかなと思って」
「なあんだそんなこと。万里くらいの歳なんて、人生全部楽しいくらいでちょうどいいのさ」
「姉さんくらいの歳になると、どうですか?」
「ふふふ、それを聞くかい? 特別にいいことを教えてあげるよ。万里にだけ、こっそりね」
 まだまだ人生を語れる歳でもないのだけれど、と姉さんは歌うように言って、その灰色の髪の毛先をくるくると指で巻いた。ぴょんぴょん、と髪の毛が跳ねて真っ直ぐになっていくのがなんだか見ていて和む。
 ぱちり、と器用に片目を閉じて、姉さんは自信たっぷりの表情でおれにその『いいこと』を披露する。
「常に『今』がいちばんだ。信じられないかもしれないけれど、ほんとうだよ。だから心配しなくても大丈夫」
 年々、世界は広がっていくばっかりなんだ。幼い頃なんてありとあらゆることが目まぐるしいよ。そうだろ? と同意を求めてくる姉さん。
「楽しいことばかりでいいんだ。若い頃の苦労は買ってでもしろだなんて言うけれど――わたしとしてはね、苦労なんてしなくていいならしない方がいいと思う」
「そういうもの、ですか」
「そうだね。代わりに、たくさん努力するといいよ」
 例えばだけれど、と姉さんは人差し指を立てた。まるで先生みたいに。
「――兄さんの話をしようかな。兄さんは中高とずっと陸上部だったよね。毎日練習をして、大会に出場して、記録も残した。これは努力だろう、紛うことなき。万里も弓道部で頑張っているよね。すごいことだよ」
「あ、ありがとうございます……」
「うん。けれど、時折やってくる煩い親戚連中の相手をしなきゃならないのはもうどこからどう見ても苦労だ。おいたわしい」
 立場もしがらみもあるから仕方ないのだけれど、と姉さんは深くため息をついた。なるほど、姉さんはやっぱり喋るのが上手い。おれとは違って。きっと父さんに似たのだろうな。
「違い、分かった気がします」
「うんうん、万里は賢い子だね。努力は進んでするべきだけど、苦労を自分から抱え込む必要は無いんだよ」
 努力は本来楽しいものだからね、と姉さんはそう結んだ。おれはなんだかくすぐったい気持ちになる。
 姉さんは、自分からは口にしないけれど――彼女自身、兄さんと同じように元陸上部で、現役時代はそれはもう大会の記録荒らしだったのだ。姉さんだって、努力を知っているひとなのである。
「姉さんのお話はいつも面白いです」
「ふふ、与太話なら任せてくれ」
「いやあの、おれは真面目にいいお話だなあと思ったんだけどな……」
「いい話のようでいて実は全然中身の無い話をすることなら任せてくれ」
「姉さんって、途中で話を茶化しがちなのが欠点だよね」
 ちょっとだけ呆れてしまう。でも、姉さんはおれのことを考えてこの話をしてくれたんだろうと思うからとても嬉しい。
 楽しいことばかりでいい、か。確かに、自ら望んだ努力は楽しいものだ。
 おれはこれからもセツさんと一緒にいたい。隣にいて恥ずかしくないような自分でありたい。それはおれが、自分で考えたことだ。誰に強制されたわけでもない。
 おれの好きなひとの好きなところを、大切なひとたちに知ってもらえたら嬉しいだろうなと思う。もし今後、仮にセツさんとの関係を誰かに問い質されるようなことがあったとしても、おれは、おれだけは堂々としていたい。
 姉さんが、「そろそろお暇するよ」と自室に帰っていった直後、携帯がメールを受信して震えたのでおれは嬉しい予感を覚えつつ受信ボックスを開く。
「……ふふ」
 セツさんの、もう見慣れた文面。メールだとちょっとだけ丁寧になる言葉遣い。おれのことをいつも気遣ってくれる。今日も好きだなあ、と思う。
 今日会ったばかりなのにまた抱きしめたくなってしまって、おれは一人照れ笑いを噛み殺した。

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