羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 今でもたまに、夢を見ているんじゃないかと思うことがある。
 堀内はクラスの中でも割とおとなしめの、目立たないグループにいる奴だった。自己主張はあまりしないタイプで運動も勉強も平均よりちょっと上、くらい。あいつはよく自分について『特筆すべきことが何も無いよね』なんて言うけど、あいつが美化委員の仕事の一環として毎週金曜、中庭の花に欠かさず水をやっているようなところが俺は好きだ。
 朝、窓際の席に座ってぼんやり中庭を眺めていると堀内がじょうろ片手にちょこまか動いているのが見える。金曜日はいつもより少しだけ早く登校して、こうしてあいつが委員会の仕事を行う十分程度の時間、密かに様子を観察するのが習慣だった。
 俺はそこまで目がよくないので細かい表情までは分からないけれど、それでもよかった。元々まったく伝える気の無かった想いがひょんなことから通じて、あろうことか向こうからも好きだと言ってもらえて、俺にとって都合のいいことばかり起こったものだから未だに幸せを消化しきれていない感じがする。キャパオーバーなのだ。幼馴染には、「純情だねえ」なんて呆れ半分に言われてしまった。ほっとけと思う。
 こうやって小さな幸せを噛み締めているだけでも一日いい気分でいられるのだから、それは悪いことではないはずだ。
 俺は、水やりが終わったらしい堀内がじょうろを片付けるため用具室の方へと駆けていくのをいつも通り温かい気持ちで見送った。
 きっと今日もいい日になる。


「そういえば正木って、おれの水やり当番の日教室の窓からおれのこと見てるよね」
 昼休み、堀内からそんなことを言われて口から心臓が飛び出るかと思った。おそるおそるそいつの方を見ると、「えっ、なんでそんな不安そうな顔するの? 怒ってるわけじゃないって!」と慌てたような顔をされてしまう。
「最近まで気付いてなかったんだけど、そういえば正木のクラスって中庭から見えるよなーと思って確認してみたら窓の向こうに見えたからさ。前に一回手振ったの、気付かなかった?」
「だ、誰に手振ってんだろうなって思ってた……一人なのに……」
「一人なのにって、それじゃあおれただの怪しい人じゃん! そっか、正木あんま目よくないって言ってたっけ」
 なんでもない風に笑ったそいつは言葉の通り怒ってはいないようでほっとする。同時に、どうしようもなく恥ずかしくなって視線を床に落とした。
 まさか気付かれているなんて思っていなかったのだ。確かに、俺にとっては細かな視線の動きまでは分からない距離。こっそり盗み見していたなんて、気持ち悪いと思われてしまうだろうか。笑ってくれてはいるけれど内心はどうだか分からない。けっして気分のいいものではなかったはずだ。
「わ――悪い」
「え? 何が?」
 黙って見てたから……とどうにか謝る。堀内が俺の方に手を伸ばすのが気配で分かった。その指先に促されるまま顔をあげると、堀内は困ったような顔で笑う。
「んー……なんでだろ、正木って不思議だよね」
「は……?」
 何がだ。そう尋ねようとしたけれど、堀内の言葉にはまだ続きがあったらしく、思いもよらない台詞が耳に飛び込んでくる。
「……おれは正木のことちゃんと好きだよ。でも正木は、今でもまだずっと片想いしてるみたいに見えることがある」
 ぎくりとした。図星とかではなくて、ただ純粋に「そういう風に思われているのか」と思って体が強張った。
「おれ、うまく『好き』って伝えられてないかな? どういうとこが不安? 前さ、せっかく下の名前で呼んでくれたのに、すぐ元に戻っちゃったのなんでか教えてくれたりする?」
 優しく問いかけるような口ぶりは俺に気を遣ってくれているのが分かってそれが余計に申し訳ない。こいつは前に、目を逸らすなと俺に言った。『おれの傍にいておれのこと見て』――だったか。遠くから見つめていた期間が長すぎて、そう簡単に習慣は変えられないでいるのが実情だ。
 せっかく受け入れてもらえたのだから、手放したくないと思う。もう手放せないとも思う。どうやったら少しでも長く、俺のことを好きでいてもらえるか分からない。
 名前だって、あのときは嬉しすぎて後先考えずに呼んでしまったというか、喧嘩の後でドーパミン出まくってたというか、しらふじゃなかったからできた芸当だと思う。どういう心境であんな大胆なことができたのか色々と自分が信じられない。不用意な発言はやめてほしい。俺だけど。
 視線の先がなかなか定まらなかったが、このままではいけないと思い頑張って目を合わせた。こんなに近くにいるのにピントが合ってしまうと、よく見えすぎて若干怖い。ぼんやり見えているくらいでようやく平静を保てているのに。
「あ、こっち見た」
 嬉しそうな表情に、心臓を鷲掴みにされた気分だった。しどろもどろになりつつ、下の名前で呼ぶのはまだ慣れないのでちょっとずつ慣れていきたい、というようなことを伝える。堀内が気に病むことなんて何も無いし、これは俺の問題で、俺が自分で意識を変えていかないといけないことだから……なんて。うまく伝わっただろうか。別にこいつの気持ちを疑ってるとかそういう話ではないのだ。俺がそういう性分だから、としか言えない。それは堀内のせいじゃない。
「ふむふむ。正木って恥ずかしがりだもんね」
「そ……れは、分かんねえけど」
「おれは分かるよ? 元々そんな口数多い方じゃないけどテンパると黙っちゃうタイプっていうか……正木が恥ずかしがってるとき、怒ってるみたいな表情になるからすぐ分かる」
 あ、もちろん怒ってるわけじゃないって知ってるよ、ちゃんと区別ついてるよ! と得意気にしている堀内。自分で言うのもなんだけど、こいつと一緒にいるときの俺は相当挙動不審だと思う。あまり客観視したくない。
 いつもの癖で俯きそうになるのを我慢していると、堀内は「よし、いいこと考えた」とまた笑顔になる。
「いいこと?」
「うん。好きって言ってからもう一ヶ月も経つし、正木にはそろそろおれに慣れてもらわないと!」
「……な、慣れる、って」
 期待と嫌な予感が七対三くらいで入り混じっている俺は、堀内の言葉を待つことしかできない。
 堀内はふにゃっとした笑顔で、こう言った。
「今週の土日どっちか空いてる? 休みだし、人目気にせず一日ずっと一緒にいようよ! で、おれの愛情をめいっぱい感じてもらおうかなーと思います」
 堀内に、こんなに好きな奴にここまで言われて俺が断れるわけがないのに、どうしてこいつはこういう言い方をするんだよ。
 もしかして今度こそ幸せがキャパオーバーして頭の大事な回路とかが焼き切れるかもしれない――そんなことを思いつつ、俺は具体的なプランも何も分からない状態で頷いた。
 口から心臓が飛び出ないようにちゃんと飲み込んでおかなければ。非現実的すぎる思考が自分の余裕のなさを分かりやすく表していて、「正木、顔真っ赤だね」と能天気に笑う堀内はやっぱり直視しづらいくらいには眩しくて、その日の午後の授業の記憶が全体的にぼんやりしてしまったのは……仕方ないと思いたい。

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