羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「そういや、なんで海だったんだ?」
 車の中、シートを限界まで後ろに下げて弁当を広げる。レンタカーなので汚さないようにきちんとシートを敷いて、準備万端だ。俺は潤が手渡してくれたウェットシートで手を拭きつつ気になっていたことを尋ねてみた。この季節、海向きではないだろう。潤は水辺が好きだというのは分かったがそれだけが理由でもない気がする。
「んう? んっとねー、印象に残ってる場所だからっていうのがあるかなあ、やっぱり。孝成さんとちゃんとお出かけしたのってここが初めてだったでしょ」
「ああ、そうだな……」
 頬張っていたおにぎりを咀嚼して飲み込んでから、潤は俺の疑問に嬉しそうに答えてくれた。そんなに昔のことでもないはずなのにとても懐かしく感じる。あのときも潤は楽しそうで、頬が太陽に焼けて赤くなっていた。
 しみじみと思い出に浸っている俺を見て潤は笑う。「孝成さん、なんでそんな遠い目してるの」できれば今のおれのこと見ててほしいなあと可愛いことを言うそいつに我に返って肉団子を口に放り込んだ。うん、美味い。
「海は、思い出の場所だから……何回来てもいいなって思うよ」
「じゃあ、今度こそちゃんと泳げる時期に来ないとな。思い出づくりに」
「ふふ、そうだね。おれ泳げるかなあ……」
「先にプールで練習するか? あー、でも海の方が浮きやすいっちゃやすいんだよな」
 小さい頃はよく市民プールに行っていた。プールのある施設の中にはアイスの自動販売機があって、泳いだ後にそこでアイスを食べるのが楽しみだった。今でもあの自販機はどこかにあるのだろうか……とまた懐かしくなる。
「……あのね、ほんとはもういっこ理由あるんだ」
「ん? なんだよ」
 ほんの少しだけ小さくなってしまった声。できる限り優しく聞こえるように尋ねると、潤は口元をほころばせて囁く。
「孝成さんって、真冬の海に来たの初めて?」
「俺? ああ、初めてだけど……」
 頷くとたちまちほっとしたような表情になるそいつ。んん、ちょっと待てよ? なるほど、分かったかもしれない。
「おれはさ、やったことないこととか行ったことないとことか多いから。孝成さんにはいつも教えてもらってばっかで、おればっかり初めてのことだらけだったから……」
「……俺も初めてのことが体験できるように考えてくれたってこと、か?」
「んーん、そんな優しい理由じゃないよ。孝成さんばっかりずるいなって思っちゃったんだ。孝成さんにあげられる初めてのこと、おれには無いのかなって思ったらちょっと悔しくて……」
 おれは孝成さんと一緒にいると初めてのことばっかりで楽しいよ、と拗ねたような口調で言うそいつ。台詞の内容と唇を尖らせた表情がちぐはぐで思わず笑ってしまう。
「お前はさ、もしかして俺がなんでも経験済みだと思ってるのかもしんねえけど……全然そんなことないんだぜ、本当は」
「そうなの?」
「そうだよ。まあ海で泳いだことはあるけど、実はスキーはしたことねえんだ」
「そうなの!?」
「地元が雪降らねえとこだったんだよな……あ、スケートもやったことねえ。あとはスカイダイビングとか」
「きゅ、急にハードル上がったね……?」
「氷に穴開けて魚釣るのも相当ハードル高いだろ」
 それもそっか、と笑顔になった潤に安心しつつ、俺は言葉を続ける。
「俺はお前が思ってるよりもずっと分かんねえことだらけで毎日手探りしてるってことだよ。これから色々一緒にやっていこうぜ」
「……孝成さん、なんでも教えてくれるからそんなの知らなかったよ」
「そりゃまあ、好きな奴の前ではかっこつけたいだろ。何か聞かれて分かりませんって答えるのも勿体ねえしな」
 でも、今度からは分からないことを二人で調べるのもいいかもしれない。そういやこいつ図書館行ったことあるんだっけか? 俺は夏休みの宿題のときくらいしかお世話にならなかったけど、潤はああいうところ好きそうだと思うんだよな。字の読み書きの練習にもなるだろうし。
「お前と行きたい場所、たくさんあるんだよ。一緒に行ってくれるだろ?」
「……、おれが断るわけないって分かっててその聞き方してるんだったらずるいよね……」
 ばれたか。許せよ、お前が可愛くてつい。
 恥ずかしくなってしまったのか、もきゅもきゅと唐揚げを頬張っている潤は無言だ。いや、無言になるために唐揚げを食べたのかもしれない。口が小さいくせに入れる量の目算を誤ったらしく口元を手で覆ってあたふたしだした。ペットボトルのお茶を手渡してやって、俺も食事の続きにとりかかる。
 ……恥ずかしいことを言った自覚があるからな。美味い食事に集中しよう。
 潤の手作りの料理を存分に味わっていると、「……ありがと」と小さく聞こえた声。俺ばかり礼を言われるのはおかしいと思ったので、「こちらこそありがとな」と返してみた。
 まだまだ若いんだから、やったことがないことなんて山ほどあるだろう。これから少しずつやっていけばいいし、一つでも多くのことを潤と一緒に楽しめたらいいと思う。
 とりあえず今は、行きと帰りで運転を交代する――ということも、こいつにとっては初めてだろうということで。どうやってそれを切り出してやろうか、楽しい想像にふけってみた。
 今日も、こいつと過ごせて幸せだ。

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