羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 次の休みはおれが運転するからどこか遠くまで行こう! と、潤が張り切った様子で提案してきたのは寒い日の朝のことだった。俺はかぼちゃと豆腐の味噌汁をすすって胃を温めてから返事をする。
「おー、いいかもな。もしかして運転練習してたのか?」
「してたよ! さすがに雪道とかはまだむりだけど……あと、孝成さんがおれの運転する車いやじゃなかったら、遠出したいなって」
「嫌なわけねえだろ。あ、でも、疲れたらすぐ言えよ? 交代するから」
「はぁい。……ありがと」
 照れたように笑う潤。最近の潤は俺に内緒で色々なことを練習するのがブームらしい。知らない間に本棚の隅に漢字ドリルとレターセットが増えていたりして、これは気付かないふりをするべきなのか……と微笑ましい気持ちになったのもよく覚えている。きっと、車の運転も俺が仕事をしている時間帯をやりくりして練習していたのだろう。
「そういや、遠出ってどこ行きたいんだ?」
 車の運転がしたいのがメインなら、特に目的地とかは無くドライブして帰ってくるという感じだろうか……なんて思いつつ発した質問には、すぐさま元気いっぱいの返答。満面の笑みで潤は言った。
「えっとねぇ、もいっかい海行きたい!」


 潤は、前のときと同じように早起きをして弁当を作ってくれた。今日も甘い玉子焼きは行儀よく弁当箱の隅に並んでいる。おにぎりはしゃけ、おかか、たらこの三種類。少し小さめのものを味を豊富に作るのが潤好みらしい。
 弁当箱は俺が大事に抱えて、助手席に乗り込む。シートベルトもしっかり締めた。「しゅっぱつしんこうー!」という楽しげな掛け声と共に、車はゆっくりと進みだした。
 潤の運転はなかなかさまになっていて、「上手いな」と思わず感心の声をあげると「ほんと? えへへ……」と嬉しそうにしている。そういえば、実技は問題なく通ったと言っていたのだったか。俺もそろそろ免許の更新の時期だったかな……と関係無いことにまで思いを馳せてしまう。
 途中で少し休憩を挟み、前に車を停めたのと同じ駐車場へと到着する。潤は運転をやりとげたからか満足そうだ。コートを着てマフラーをして、できる限りもこもこの防寒姿になってから外に出た。
 波は穏やかで、澄んだ青空が広がっている。
「さっ……むーい!」
 潤が海に向かって叫んだ。真冬だからか辺りには人っ子一人おらず、騒ぎすぎて苦情がくるという心配はなさそうだ。俺はがたがた震えながら潤の隣に行って、「マジで寒いなこれ……弁当車に置いてきてよかった」と半分独り言。天気はいいのだが潮風が寒すぎる。こんな日に砂浜で弁当を広げるのは風邪一直線だ。
「孝成さんっ、海さむいね!」
「おー……冬だからな」
「海きれい!」
「そうだな、今日は天気もいいし」
 今日は裸足になれないね、とちょっぴり残念そうな表情で潤が言うので、足を冷やすと風邪ひくぞ、なんて返してみる。潤は波打ち際まで行くと指先で海をぱしゃぱしゃと撫でて、「つめたい」と笑った。ハンカチを渡すと素直に手の水気をぬぐったけれど、指先は赤くなっている。
「潤。ほら、手」
「え?」
「冷たいだろ」
 両手で潤の指先を包む。ひんやりとした細い指に形の整った爪だ。帰りは俺が運転して、カイロでも買ってやろう。潤はおとなしくされるがままで、時折風が強く吹くのに首を竦めている。マフラーがあるとはいえ寒いのだろう。
「孝成さんの手、あったかいね」
「ん? あー、割と体温高い方だからな。っつーかお前がこの寒いのに水に手突っ込むから」
「なんかこういうの触りたくなっちゃわない? きれいだなぁって」
 海すき、湖とかも行ってみたいな、とはにかむ潤。湖か。いいな、癒されそうだ。初夏辺りとかどうだ? それこそゴールデンウィークとかさ。
 どうやら潤は水辺が好きらしい。鏡みたいに光って、魔法みたいに揺らめくのがどきどきするんだそうだ。水に自分の姿が反射して、その水を手で撫でるとそれまで映っていた自分が見えなくなって、でもすぐ元通りになるのが不思議だ――なんて熱弁する潤の着眼点は、まるで小さな子供のようだった。俺では到底不可能な発想だと思う。とても素直で好奇心に溢れていた。
 俺も昔は、どうして服は濡れると色が濃く見えるようになるのかとしつこく親に尋ねて困らせていたのだが。結局今も真相は謎のままだ。……今度は図書館に行ってみるのもいいかもしんねえな。
 波打ち際を並んで歩く。砂に足をとられて時折ふらついている潤を支えるのは俺の役目だ。水面に太陽の光がきらきらと反射しているのはとても綺麗で、いいな、と思う。冬の海は夏とはまた違った趣があった。もしも夏でこんなに晴れ渡っていたら、太陽の光が強いからこの景色を見るには眩しすぎただろう。今の季節、海は少しだけ寂しくてそういうところが綺麗だ。
「あ、ねえねえ孝成さん、あそこ。釣りしてるひとがいるね」
「ほんとだ。何が釣れるんだろうなこの辺り」
 海岸の端からようやく見える防波堤と、その近くにぽつんと置いてあるクーラーボックスらしき箱。じっと座って、魚の引きを待っているのであろう釣り人はあまりにも微動だにしないので眠っているようにも見える。
「おれ、釣りってやったことないや。釣り『も』だけど……」
「じゃあ今度やるか? たぶんそういうの、教えてくれるとこあるだろ。竿とか借りて」
「いいの? おれね、氷に穴開けて魚釣るやつやってみたい!」
「おお……それは大分遠出しなきゃだな……」
 俺も釣りは未経験だ。氷に穴開けるやつはすぐ実現するには休み的にも金銭的にも厳しいが、どうしたものか。まずは手近なところ、夏祭りの夜店の金魚すくいから始めてみないかと提案してみよう。
「なーんか腹減ってきちゃった。そろそろお弁当にしようよ。あと、今日の夕飯は魚!」
「ふは、気が早いな」
「帰りにおっきいスーパー行こう? 今日は寒いから、魚いっぱい入ったお鍋とかもいいね」
 鍋いいな、正月に買って残ってる餅入れよう、なんて言いながら、俺たちは来た道を戻っていく。ちょっとしたドライブと散歩ついでに買い物、って考えると結構充実してるな。この辺りは道幅が広いし、景色も悪くないしでただ走っているだけでもなかなか楽しいのだ。
 食べ物のことを考えていたからか胃が空腹を訴えるのを感じる。確か弁当のおかずにめちゃくちゃでかい肉団子入ってたよな……と楽しみにしつつ、俺は潤と手を繋ぐ。
「えっ、ど、どうしたの?」
 潤は恥ずかしそうにするけれど、ぎゅっと手を握り返してくる。こういうところが愛しく思う。潤は素直だ。こいつの「好き」という気持ちは、いつでもまっすぐ俺に届く。
「さっきから何度もこけそうになってるから。砂まみれになるのは嫌だろ?」
「う、ううー」
「お前いつまでも手寒そうだし」
「孝成さんの手はやっぱりあったかいね」
 心までぽかぽかしてくる、と笑うそいつに我慢ができなくなって、一層強く手を握りながら囁く。
「……あとは、こうやって二人だけで歩いてると、デートみたいで楽しいし」
 いい歳して恥ずかしい気もする。こんなこと、大学時代だってやったことはなかった。でも潤は俺のなんてことはない言葉で喜んでくれるので、多少恥ずかしくても別にいいかな、と思う。
 今となっては潤に対して「明日いなくなってるかも」なんてことは思わなくなったけれど、別にそれは俺の気持ちを伝えない理由にはならないから。
「……潤? どうした?」
「ん、んんん……」
 潤は小さく唸って、僅かに背伸びをして俺の耳元で言う。
「……おれは、家を出るときからデートだとおもってたよ?」
 そっか……だよなあ……うん、そうだな。今日は綺麗に晴れてて、いいデート日和だったもんな。
「じゃあ、続きするか」
「うん!」
 空いた方の手で潤の髪を撫でる。潮の匂いを海風が運んでくる。ぐう、と腹が鳴ったので、ますます昼飯が楽しみになった。

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