羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 翌日、朝の四時。店の厨房に入れてもらって、上着を一色に預けたオレは真っ先に手の消毒を指示された。本来だったらこの場所は関係者以外立入禁止のはずで、だから若干緊張しつつ消毒液を手に擦り込む。言われるままにエプロンもつけた。業務用の大きなオーブンと、銀色の重そうな扉の冷蔵庫が自然と目に入る。
 ステンレスの作業台の上にはすっかり計量し終わったと思しき材料が並べてあって、オレの視線に気付いたらしい一色が「計量してるとこ見たって退屈でしょ」と微笑む。別に退屈ではねえよと返した後で、もしかしたら一色は、少しでもオレの起きる時間が遅くていいように気遣ってくれたのかもしれないなと思い至った。こいつが一体何時頃から起きていたのか、オレには分からないしきっと教えてもらえないだろう。
「何か手伝うことあるか?」
「ない」
「ないのかよ。せっかくエプロンつけたのに」
「似合っててかわいいよ。じゃあ、せっかくだし牛乳温めたりとかしてもらおうかな」
 今さらっととんでもない発言が飛び出した気がするのだが、反応すると面倒なことになりそうだったので黙っておく。どうしても無表情を装うことができなくて俯くと、オレを横目に見たそいつが「ほんと分かりやすい」と言った。悪かったなオイ。お前の表情筋は今日も絶好調にサボりの真っ最中だぞ。
 ……でも、まあ、我ながら最初の頃よりは随分とこいつの感情を読み取れるようになったと思う。今だって、一色は楽しそうだ。たぶんな、たぶん。
 素人が下手に手を出しても邪魔になるだけだというのは確かなので、おとなしく一色に言われた通りのことだけを手伝って残りの時間は見学に勤しむことにする。オレが手伝えたのは、牛乳を人肌くらいに温めたり、粉をふるったり、生地を濾すためのザルを持ったりと、まあ、こまごまとしたことだ。
 一色はよどみない手つきでレシピも見ずに作業を進めていく。きっと、これまでに何度も繰り返してきたことだから手順が完璧に頭に入っているのだろう。器具の扱いにも慣れている感じで、見ていて気持ちいい。
 どんな風にケーキを作っているのかと半ば興味本位でここまで来てしまったのだが、目の前にいる一色はなんだかとても、そう、見蕩れてしまうくらいに綺麗だった。
「――退屈してない?」
「ん? 全然。ケーキ作るのって見るのも楽しいな」
 見蕩れてましたなんて恥ずかしくて言えないので当たり障りのない返事をしておく。一色は、「何か別のこと考えてる感じだったから、大丈夫かなって」と言いつつ手元に視線を戻した。いや、それは別のことっつーかお前の……い、言いづれえ……。
 しかし、言いづらいとか考えてる場合じゃないというのも分かる。オレが分かりやすすぎるというのもあって一色はこちらの思っていることをかなり察してくれるのだが、任せっぱなしはよくないと思うし趣味でもない。オレはどうにか羞恥を軽減できる方法を考えて一色の背後に回った。ゴムベラで生地を混ぜている一色は、今絶対に手が離せないはずだ。つまり、オレが何をしようが反応できないということである。
「……あの、さっきのはなんつーか……お前がすげー慣れてる感じだったから、たぶんもっとガキの頃からケーキ作ってたんだろうなとか、あと、手際いいし道具の使い方丁寧で綺麗だし、そういうのいいなって……好きだなと思って、見てた。……それだけ!」
 最終的に何を言いたかったのか分からなくなって強制終了してしまった。これ、もしかしなくても「見蕩れてました」と言うより恥ずかしい内容になった気がする……。
 心臓の煩さをどうにか宥めていると、「水嶋、最後にもう一回濾すから濾し器持って」と声が掛かる。オレの発言には特に言及なしか。少し寂しく思いつつそいつの隣に並ぶ。
 そしたら、視界に入ったそいつの顔がびっくりするくらい赤かったので思わずザルを落としそうになってしまった。
「う、わっ、わ」
「落とさないでね。ほら早く、生地萎む」
「はい……」
 ケーキの型の中に重たげに落ちていく生地と、それを真っ直ぐ見つめる一色の赤く染まった目元を交互に見て唾を飲む。厨房にはオレたち二人きりで、他に誰が見ているわけでもないというのに、この一色は誰にも見られたくないなと辺りを確認するように見回してしまった。
「……めちゃくちゃ挙動不審じゃん。どうしたの」
「ど、どうしたのってお前……」
「おれだって好きな奴に好きって言ってもらえたら嬉しいし照れるんだけど。というか、おまえの方が真っ赤だよ」
 言うなよそれを! 分かってんだよ自分でも!
 一色はボウルの側面をゴムベラで丁寧に一周して、オレから受け取ったザルにほんの少し残っていた生地も濾して、生地が流し込まれた型を作業台の上でトントンと何度か落とす。こうすることで余分な空気を抜くらしい。
 余熱に設定していたオーブンに生地を入れて扉を閉めて、一色はほっと息をついた。
「クリームはスポンジ焼けて冷ました後で。……次からはああいうこと言うときは予告してね。ただでさえ緊張してたのにマジで集中切れるかと思った」
「予告してからって余計に恥ずかしいだろ……っつーか、緊張してたのか?」
「してた。失敗したら恰好悪いでしょ」
 手が震えそうだった、という自己申告がやけに可愛く思えてしまう。こいつが可愛いって流石にねえよと必死で自己暗示をかけてみたものの、自分に嘘はつけなかった。
「……なあ、焼き上がるまで待ち時間あるだろ」
「うん。そんなに長くはないけど暇なら仮眠しとく?」
 なんでだよお前がいるのに、と口にするのももどかしくて、オレはそいつの襟元を掴んでキスをする。軽く舌を吸ってみて、甘くねえな、と当たり前すぎることを思った。一色が固まってしまって動かないことを内心面白く感じる。久しぶりの感触に頭の奥がちりちりと燻っている。やりすぎてしまいそうな気配にどうにか唇を離した。
「…………、……急すぎた。悪い。したくなったから」
「別に悪くはない、けど、……びっくりした。えっと、嬉しかったよ、すごく」
 いつかオレも、「見れば分かる」なんて言える日がくるだろうか。今はただ、こうしてちゃんと言葉にしてくれることを有難く思うだけだ。
「……もしかして、水嶋ってこういうの時間かけなくても平気なタイプ?」
「んだよ、逆に聞くけどお前にはオレがそんなおしとやかそうに見えてたのか?」
 顔を近付けて、べ、と舌を出してやると今度は向こうから唇が触れた。そろそろこいつのギャップにも驚き慣れたのだが、ケーキを作るときのように丁寧なキスだった。
「恥ずかしくなったりしないの」
「恥ずかしいの通り越したわ。っつーかお前見てて普通に興奮したし」
 今まで翻弄されてばかりだったので、目元を染めて視線を逸らす一色を見られるのは気分がいい。やっぱりこいつ、表情や声色に出にくいってだけで感情まで平坦なわけじゃねえな。「片付けしないとだから……」とかなんとか言って逃げようとする一色を「うるせえ後にしろ」と追い詰めて、思う存分恥ずかしがらせてやった。ざまあみろ。
「な、なんなの、もしかしてまだ怒ってる……?」
「これが怒ってる顔に見えるのかよ。お前のことが好きって顔だろうが。よく見とけ」
「……、おまえ恰好いいね」
「そうだろ。やっぱり男は顔のつくりだけじゃねえってことだよな」
 目の前で貴重な赤面を披露している顔のいい男は、口の中で何やらごにょごにょ言っていたがやがて諦めたように笑う。
「降参。ケーキ完成したら好きにしてくれていいから、それまでは待って」
 流石のプロ根性である。今回は一段落する前に手を出してしまったオレがどう考えても悪いので、完成までおとなしく待つことにしよう。
 もちろん、その後の保証はしないが。
 なんつーか、自分のこと好きって分かってる奴に『好きにしていい』なんて滅多に言うもんじゃねえと思う。まあ、教えてなんかやらねえけどさ。

 一色はオーブンから焼き上がったスポンジを取り出すと、調理用のナイフでカットして「はい、味見。熱いから気をつけてね」と小皿に載せてくれる。焼き立てのスポンジを食べられる機会なんてそうそうない。遠慮なく頂くことにしてほんのり湯気が立ち上るスポンジを口に入れれば、ふわっとした食感と優しい甘みが広がる。
「……う、美味すぎる……分かってたけどクリームなしでも美味いよなスポンジって」
「ありがと。そこまで美味そうに食ってもらえると作り手冥利に尽きるね。……あの、早起きした甲斐あった?」
「超あった。っつーかお前は食わねえの? この感動を共有しろよ、今すぐ」
 自分の作ったもの食って感動してちゃ世話ないでしょ……とぼやく一色の口にスポンジを放り込んで、「んー……うん。よかった、ちゃんと美味いね」という言葉を引き出しまるで自分のことのように誇らしくなってしまった。美味いだろ。分かるぞ。
 オレも一応隣で手伝いらしきことはしたというのに、あの材料からこれが出来上がるというのがもうまったく理解できない。今のオレにも理解できるのは、このただでさえ美味いスポンジがこれから一色の手によって更に美味くなるということくらいだ。
 綺麗な布巾をスポンジに被せて冷めるのを待ち、その間に今度こそ食器を洗ったり、一色の教えてくれるケーキの豆知識を聞いたりして過ごす。
 ようやく空が白んできた頃に一色は生クリームを泡立て始めた。グラニュー糖に、香り付けの苺のリキュールが数滴。この店のクリームは、他で食べるよりもとろっとしていて流れやすい。けれどそのクリームをスポンジでたっぷりすくって食べるとめちゃくちゃ幸せになれるのだ。
 惚れ惚れするほど鮮やかな手つきを特等席で眺めていると、「水嶋。最後の仕上げ」の声と共に苺を手渡される。オレが載せていいのだろうか……と少し緊張しながらも細心の注意を払って苺を真っ白なクリームの上に載せた。
「で……できた」
 大した手伝いはしていないというのに一丁前に感動できるのだからオレは単純だ。
 一色は、「いいじゃん。せっかくだしちょっと冷やそうか。コーヒー淹れるね」と言ってケーキケースの中に作ったばかりのケーキを入れて、それだけでなく簡単な朝飯も用意してくれた。そういえば起きてからもう四時間近く活動している。腹減った。
 時刻は七時過ぎ。すっかり朝だ。
 開店前のイートインスペースを間借りして、二人で朝飯を食う。なんだか変な感じだなと思ったが悪い気分ではなかった。普段行ってる店に営業時間外に入れてもらえるってなんだか常連みたいだし、特別扱いされてるみたいだ。
「味付けどう? おれ、料理が得意ってわけじゃないから多少大味なのは許して」
「美味い。お菓子作りが得意な奴って料理も得意なんだと勝手に思ってたけど違うのか」
 スクランブルエッグにソーセージにトーストというシンプルなメニューだが、十分なもてなしである。一色は淡く笑って、「おれはケーキだけだよ」とトーストを齧った。
「おれにはこれしかないから、おまえが見つけてくれて嬉しかった」
「……因みにだけど、きっかけとか聞いていいのか? その……好きになった」
 一色はなんでもない風に「いいよ」と言う。声はとても柔らかい。
「実はさ、おまえが初めてうちの店に来てくれた日、おれの作ったケーキを初めて店頭に並べてもらえた日だったんだよね」
 そうだったのか。それはかなりの偶然だ。そしてそこまで聞けば、後の展開もある程度予想がつく。
「で、そのケーキを最初に買ってくれたのがおまえ。おまえはおれの初めてのお客さんだったんだよ。めちゃくちゃ美味そうに食べてくれたよね。今でも覚えてる」
 幸せそうに思い出を語ってくれているところ悪いのだがオレは顔から火が出そうだ。いや、物食ってるとこじっと観察されるのは恥ずかしいだろ!? っつーかなんでオレは気付かなかったんだよそれに! ……たぶんケーキが美味かったのでそれ以外に意識が向かなかったのだろう。恥の上塗りだ。どんだけ食い意地張ってんだよ。
 にしても、こいつが最初からオレに好意的だった理由がようやく分かった。オレに話し掛けてくるずっと前からこいつはオレのことを見ていて、好きでいてくれたのか。
「きっかけはそれだったんだな」
「うん。おれの作ったケーキ食べて常連になってくれたのが嬉しくて、今日は木曜だから来てくれるかなとか、どんな顔して食べてくれるかなとか、待ち遠しく思ってるうちにいつの間にか。反応が分かりやすくて、おれには絶対そういうのできないからそれも羨ましくて、好きだなって思ってたよ」
 オレはお前のその、伝える努力を惜しまないところが好きだよ。
 声に出すより先に一色は立ち上がっていて、ケーキケースの中からケーキを取ってきてくれる。一緒に冷えていたフォークも手渡され、期待に満ちた目が向けられる。
 大きくカットして頬張った一口は、自分でも驚くほど美味しく感じた。
「美味い……」
「そんな顔してる。ありがと」
 これからもおれの作ったもの食べて幸せですって顔してよ。そう言われて、恥ずかしさと愛しさみたいな何かが一気に押し寄せてくる。キャパオーバーだ。
 ……っつーかさ。今のお前だって、分かりやすく幸せそうな顔してるからな。
 最後まで言えなかった言葉は次の機会にとっておこう。そう言い訳をして、オレは口いっぱいの甘さを溢れそうな感情と共に飲み込んだ。

「マジでこれ全部貰っていいの? 一生禁煙?」
「あー、まあほぼ……? 保存状態クソだと思うけどそこは許せ」
 友達にタバコを押し付けて在庫処分をしたオレは、すっきりした気持ちで手についた葉を払った。元々味が好きじゃなかったこともあり、禁煙に苦痛は感じていない。
「っつーかお前らマジで仲良くなっちゃってんね。水嶋、一色に言われたから煙草やめたんでしょ?」
 オレの隣にいた一色が、「そうなの?」と尋ねてくる。答えを知っているくせに。
「答え分かってて言わせようとすんな。嬉しそうにすんな腹立つ」
「え、嬉しそうなんだ……俺全然分かんないんだけど。一色って表情読めないわー」
「おまえがちゃんと見てないから分からないんじゃない?」
「い、言うじゃん……でも一色、見た目から想像するより穏やかだよね。それは分かる」
 どうやら一色は徐々に周囲と和解することにしたらしい。というか、初対面の男に対して変に壁を作らなくなった……みたいな。自分のことを好き勝手言っていたオレの友達の印象はきっと一色の中で最悪だろうと思っていたのだが、いざ対話してみたらご覧の通りだ。やばそうなの見た目だけだったねー、でも見た目やばそうじゃなかったらただのイケメンになっちゃうから俺はそっちのがいいなー、とモテない男丸出しの発言たちを一色は軽く笑って許したようだった。
 若干チョロくて心配になったが、友達を作るならそのくらいの方がいい……のかもしれない。何より、笑顔が増えたのでオレの中ではオッケーだ。
「――うわっ、澄仁が水嶋くん以外の男と喋ってる! レアだ!」
「おまえ、おれに関する変な噂を拡大させるのやめてくんない。っつーか水嶋に余計なこと喋ったでしょ」
「うそっバレてる!? 水嶋くん庇ってくれるって約束したじゃん!」
「……は? マジで喋ったの?」
「カマかけだったの!? し、信じられない……! シンプルに性格が悪い……!」
 本名を未だ知らないうちに妙に仲が深まってしまったこの女、本日もすれ違いざまに絶好調である。後から分かったのだがどうやらこいつも喫煙者だ。意外すぎる。一色は、『こいつは既に舌が馬鹿。手遅れ』と真顔で言い放っていた。
 タバコ組が校舎裏のサボりスペースに向かうのを見送って、オレは嵐が過ぎ去ったことに一息つく。「どうしたの水嶋。煙草が恋しくなった?」とすかさず言われたので否定しつつも、試しにさっきタバコ組が向かった方に一歩踏み出してみると、優しく、けれどしっかりと腕を掴まれる。そのまま引き寄せられて、オレは勢いのまま一色の体にもたれかかってしまった。
「……お前、淡泊そうに見えてマジで淡白そうに見えるだけだな」
「まあね。隠さず伝えてるでしょ、おれがいるのに他の奴のとこ行かれるのは嫌」
 この男、独占欲が強めらしい。呆れたような声は出しつつ実は満更でもない気がしているオレも大概なのだが。
 オレは色々なことをむず痒く感じつつ、「なあ、今日木曜日だろ。何作ったんだ?」と尋ねる。「今日はオペラ」優しさばかりの声が耳に心地いい。
「じゃあ、一緒に食おうぜ。いつもの席で」
 返事代わりにそいつの指先がオレの前髪をそっと掻き上げて、額を唇が掠めていく。
 今日もこいつの作るケーキは美味いだろう。
 オレは、数十分後の未来の幸せをそう確信していた。

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