羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「頼まれたんだよ、ここの陸上部の奴に」
 つまりはそういうことらしい。にわかには信じられなかったが、この状況で嘘をつく理由も無いだろう。「確かにムカつくとは思ってたけど、それだけのことでわざわざここまで来たりしねえ」と言ったそいつらは、津軽の足が包帯でぐるぐる巻きになっているのをいざ目の当たりにすると罪悪感を覚えたのか、「悪かったよ、怪我させて……」と意気消沈している。奥に殴られて完全に戦意喪失しているらしい。あとはまあ、血まみれの奥に普通に引いてた。
「いや、あの、怪我はどうかお互い様ということで手打ちにしてもらえないですか……おれ、何も言うつもりは無いので」
「それは俺らとしても有難いけどよ……っつーか寧ろこっちがやりすぎたし……」
 津軽はどうやら最初から、こいつらの独断ではないことを察していたらしかった。それもあって事実を隠匿したとのことだ。
 もう少しその他校生から話を聞いてみると、奥に関しては前に喧嘩を売られたからついでに何発か殴っとこうくらいの気持ちだったらしい。奥、喧嘩っ早いからな……。思いがけず反撃に遭ったのでつい熱くなってしまった、とこちらについてもいたく反省していた。病院行ったほうがいいと思う、なんて言ってすらいる。こいつら別に不良とかじゃなくて、喧嘩慣れしてないから寧ろやりすぎちゃったパターンなんだろうな。割と話が通じるし。
 大体の事情はこれで分かった。で、一番重要なこと。一体これを仕組んだのは誰なのか。話によればもうすぐそいつはここに来るらしい。そもそもこいつら、今日は金を受け取りにこんなところまで来たのだそうだ。金で雇われてたのかよ……そして前払いじゃないのかよ……と詰めの甘さに「そうなんだ」としか言えない。
 高槻なんかはもう既に仕事は終えましたみたいな顔をしているけど、オレとしてはそういうわけにもいかない。部のことを思って黙っていた津軽には申し訳ないけど金銭まで絡んでくるとなると更に悪質だし、場合によっては学校に報告しなきゃいけなくなる。あーあ、風紀委員って損な役回りだな。
 と、そのとき。ジャリッ、と砂を踏む音がした。意外にも真っ先に反応したのは奥で、オレたちの会話なんて全然聞いてないと思っていたのにその反応速度といったら目を瞠るものがあった。視線の先には――男子生徒が、一人。そいつはこの状況を見て一瞬で事態を把握したらしく、びくりと身を竦ませて立ち止まる。視線が斜め下に逸れた瞬間、奥の「逃げるなよテメェ、顔覚えたぞ」という恐ろしい台詞が放たれた。
「あー、風紀委員だけど。話聞かせてもらってもいいよね? 大体のことは分かってるから、とりあえずもっと近くまで来なよ」
 なんだかオレまで脅してるみたいな言い方になってしまったけれど、これくらいは許されるだろう。
 友達を傷つけられて怒ってるのは、奥だけじゃないってことだ。


 そいつは観念したのかすっかりうなだれて、けれど恨みがましそうに視線を他校生の方へと向けた。
「おい、遼夜が怪我させられたのはテメェが原因か?」
「そ……そう、だけど、そうじゃない……! 俺は別に、怪我させろなんて言ってない……!」
 そこまでしろなんて言ってない、と絞り出すそいつに、「ハァ!? しばらく部活に出てこられないようにしろっつったろ!」と他校生のうちの一人が声をあげる。うるさいなあ、仲間割れしないでほしい。ちょっと黙ってて。
「お、俺はただ、津軽がちょっと部活を休んでくれればそれでよかったんだよ……これだから馬鹿は嫌なんだ、すぐ暴力に訴えて、こんな大騒ぎに……」
 別に肉体的にどうこうすることだけが暴力じゃないけどね。口頭で脅すにしたって立派な暴力だよ。オレは別にこいつの友達じゃないからわざわざ教えてやったりはしないけど、視界の端で高槻がなんともいえない表情をしているのが分かってオレまで気持ちが落ちた。
 と、静かに状況を見ていた津軽が「……理由を聞いても?」と呟く。
「何か、いやな思いをさせてしまっていたなら……謝らないといけないなと思っているんだよ」
 自分に間接的ではあれ危害を加えてきた当事者に対するものとは思えないくらい、それは優しい声音だった。まったくと言っていいほど怒りや憤りといった感情のうかがえない声が不思議で、なんとなく怖くなる。
 男子生徒は眼光を鋭くして、「そういうところだよ……そういうところが嫌だ」と吐き捨てた。
「――お前怖いんだよ、お前が来てから陸上部はおかしくなった。俺は別に勝てなくてもよかったんだ、ただ走るのが好きなだけだったのに、最近はもう記録伸ばさないと責められてる気がするんだ」
 そんな言葉から、そいつの話は始まった。
「お前がすごい奴なのは分かるよ。でもお前がいるのはこの学校の陸上部でなきゃいけないのか? お前だって本当は気付いてるだろ、この学校の陸上部はお前の実力に見合ってないんだよ。誰でもお前みたいにできるわけじゃないんだよ……」
 最初から陵栄東みたいに全国レベルの奴が集まってるところに行けばよかったんだ、陵栄東に入学すればよかったじゃないか、とそいつはしきりに繰り返した。「昔の陸上部の方がずっと楽しかった、今はただつらいだけだ」と青い顔で言った。
 同じ部活だけど見慣れない顔だと思ったら専門が違うからか。きっとこいつもスプリンターだ。当然ながら津軽が入部してから一番活動が盛んになったのは短距離種目なので、耐えられなくなったのだろう。
 授業なら最も低いレベルに合わせることが多いけれど、部活に関してはそうではない。どうしても、一定の水準に満たない奴は排斥される。レベルの高い奴が望むと望まざるとにかかわらず。
「お前が……すごい奴だってのは、分かるよ。お前がいると空気が締まるっていうか、みんな真剣な顔する。お前は知らないだろうけど、顧問なんて昔は超適当で週の半分くらいしか部活見にきてくれなかった。それが今や土曜までいるし……」
 そいつは俯いて、「ごめん……俺だってちゃんと分かってるんだ。お前のせいじゃない。でもさ、お前と同じだけ練習したって、表彰台にかすりもしない奴が殆どなんだよ」と呟く。
 走るのは好きなんだ。もっと速くなりたいとも思ってる。でも、仮に今日の記録が昨日より悪かったとして、それを謝らなきゃいけないなんてのは嫌だ――と、泣きそうな声で言ったきりそいつは黙ってしまった。こいつは、ちょっとの間でも津軽が部活を休めば、部の雰囲気が元通りになると……思いたかったんだろうか。きっと、自分が休むのを選択することすらできなかったのだろう。オレは割と好き勝手休んでるけど、こいつはそれができなかった。
 まあ、こいつの言いたいこともほんのちょっとだけ分かるよ。「勝ちたい」が「勝てなきゃ意味が無い」になるのが嫌だったんだろ。でもそれは津軽のせいじゃない。津軽が強制したわけではない。あいつはただ、黙って誰よりも練習していただけだから。
 ちらりと表情を窺った津軽はやっぱり怒ってはいなくて、代わりにとても悲しそうな顔をしていた。何も悪いことなんてしてないのに、申し訳ない、みたいな顔だった。
 男子生徒はいよいよ自分の作った沈黙に耐えられなかったらしい。ダメ押しのように、「お前とは違うんだよ。恵まれてもいないし必死になれない。……才能が、無いんだよ」と言った。
「は?」
 そしてその言葉に返事をしたのは奥だった。どこにそんな余力があったのか大股でずんずん歩いて、止める間もなく男子生徒の胸倉を掴む。津軽は焦って声をあげたけれど、残念ながら効果は無い。自分よりも背が高い、ガタイもいい男に対して一歩も引かずに奥は言った。
「テメェ今なんつった? 言うに事欠いて才能っつったか」
「な、なんだよ事実だろ、できることとできないことがあるんだよ、人間には……」
「そうだな、お前に才能が無いのはお前のせいじゃない。でもだからって、理解できないからって、こいつの努力までテメェの物差しではかるな。それはそんな手軽に扱っていいもんじゃねえぞ」
 奥は、怒っていた。静かにこれ以上なく怒っていた。怒鳴り散らしこそしなかったけれど確実にキレてる。たぶんオレじゃ止められないから津軽か高槻か……できれば津軽がいいけどあんま無理させられないしやっぱ高槻頼むいざとなったらあいつを止めてくれ。
 オレがいよいよ神頼みしかできなくなったとき。奥は最後に、ものすごく不愉快ですというのを隠さずこう吐き捨てた。
「遼夜のこと何も知らねえくせに上っ面だけ見て好き勝手言う奴は百遍死ね。こいつをこれ以上踏みにじるつもりなら俺が殺してやる」
 ――その日、オレは同年代の奴のマジの土下座ってやつを初めて見た。
 もしかして土下座してるそいつの頭踏んだりしないよな、と心配したけれどそれは杞憂で、奥はもう見る価値も無いと言いたげにため息をつくと「……肩外れてなけりゃ殴ってた」とだけ、小さくこぼした。

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