羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 まずい、全然自分をコントロールできなくなってる。自分でも分かるんだけどマリちゃんと、その……正式なお付き合い? をするようになってからの自分のうかれっぷりが怖い。
 最近は暁人の呆れたような視線にも慣れてしまった。慣れたくなかった……。でもあいつ、マリちゃんと話をしたとかメールしたとかそういうのをかなりの確率で当ててくるんだよな。兄弟だからというだけじゃなくて、俺がかなり分かりやすいのだろう。恥ずかしい。
 いや、自分でも分かってるんだって。もうちょっと落ち着いたほうがいいってこと。だってこんな状況異常だろ。これまでは、関係を持った女って入れ替わりが激しくて誰がいなくなって誰が増えたとか全然気にしたことなかったし、誰か一人のためにこんなにメンタル左右されることもなかった。会えるのが楽しみとか、メールや電話でのたった一言に嬉しくなるとか、初めてなんだよ。俺、自分はもっと冷めた恋愛しかできない奴だと思ってた。実際は冷めてるどころか全然余裕がなくて、マリちゃん相手だとそれも嫌じゃないっていうんだから救いようが無い末期だ。
 あんまり重いとウザがられるかな。
 どこかで、マリちゃんはそんなこと思ったりしない、って考えてる。だって俺とは違うから。マリちゃんは、あの告白の後もあまり態度が変化しなかった。変わらず優しくて誠実だった。マリちゃんはすごいな。そんなマリちゃんに幻滅されるのは怖い。もっとこれこれこういう人だと思ってた、という反応をされるのが怖い。マリちゃんはそんなことを言ったりしないと思うのに、同じくらい不安だった。
 たぶんこれは俺がどうしても自分のことを下に見ているからなんだろう。俺はまだあんな風にちゃんとできてない、全然足りない、と思ってしまうから不安になる。早くちゃんとした真人間になってマリちゃんとつりあうようになりたいのに。
 とりあえず、家のことと仕事はこれからも頑張っていこうと思う。マリちゃんも、その二つを頑張ってる俺が好き、って言ってくれたし。つまり、俺の基本的な生活自体はあんまり変わらないのかな。難しい。

「セツさん、こんにちは」
「マリちゃん! 会うの今日でよかったの? 文化祭で疲れたでしょ」
「大丈夫ですよ。今日は、朝ちょっとゆっくり起きましたから。セツさんだってお仕事だったんですよね?」
「昨日早出にしてもらったからへーき。ありがと」
 気遣ってもらったことにお礼を言うと、マリちゃんはふわりと笑った。はは、かわいー。もうとっくに俺よりしっかりした体つきをしているけど笑顔は幼い感じ。俺の言動に素直に反応してくれるところとか、ほんとにかわいいなって思う。
 基本的に会うのは俺の部屋で、ということにしてる。マリちゃんの家は度々お邪魔するには申し訳ないし緊張してしまうから、マリちゃんが通ってきてくれているのだ。いつも来させてばかりだと駄目だよなあとも思うけど、「おれの家、ちょっと人目が気になりますよね」とマリちゃんが恥ずかしそうに笑って同意してくれたからつい甘えてしまっていた。
 その代わりと言っちゃなんだけど、俺は全力でおもてなし。「久しぶりにセツさんの作ったカクテルが飲みたいです」と言われたので一も二もなく頷いた。だから今日は店のカウンターじゃなくて、家の台所で色々と試行錯誤している。っつーかやっぱり家の台所だと狭いな。
 マリちゃんは俺の作業を見てにこにこしていて、そんなにこれ見てるの面白いかなあとちょっと不思議。楽しい? って聞いたら、「あなたと一緒にいられるのが楽しいんですよ」と返ってきて照れてしまった。そーいうことね。
 もう寒い時期に入ったから、果物たくさんで爽やか、ってお酒は時期じゃない。今ならちょっと重めで甘さが強い感じの――うーん、どうしよ。
 俺も甘いのが飲みたい気分だったから、ミルクセーキにした。あったかいやつ。冷たいのならシェイカー使うんだけどホットだから鍋。もうカクテル全然関係無いなあと思いつつ材料を弱火にかける。そういえば暁人が小さい頃はよく作ってた、と懐かしくなった。
 マグカップを手渡すと、マリちゃんはそれを物珍しげに観察している。鍋を軽く洗って、並んでソファに座った。
 コップに口をつけてゆっくり傾けたマリちゃんは、温かい吐息と共に言う。
「セツさんの作る飲み物久しぶりですけど、やっぱりおいしいです」
「そ? よかった!」
 一安心だ。マリちゃんと出会ってから、格段にノンアルコールカクテルのバリエーションが増えた。これが案外お客さんにも好評で、特に女の子なんかは「アルコールはもういらないんだけど最後に一杯だけ……」って追加注文してくれるようになった。いいことばかりだ。
 飲み物を一緒に飲みつつのんびりする。今日は特に、どこかに出かけようっていう予定ではない。マリちゃんってあんまり外を遊び歩いた経験が無いみたいで、部活や習い事が忙しいせいもあるのか「遊び方、あんまり詳しくないんです……」と小さな声で言っていた。一人のときは図書館に行ったり散歩をしたり、あとは時間に余裕があれば美術館巡りをしたりするらしい。イメージ通りだ。
「家族とは出かけたりする?」
「はい。本家や父の会社の関係で、お誘いをいただいたりして……この間はコンサートに行きました」
 当然のごとくクラシックだった。俺、たぶん一生行く機会無いよ……。
 映画の試写会とか、野球の観戦の特別席とか、よくチケットを貰うらしい。つくづく住む世界が違う。俺が昔よくやっていた『遊び』の内容はぜひとも黙秘したいところだった。
「セツさんは、コンサートとかはあまりご興味ないですか」
「あー、俺教養無いからな……曲名も何も分かんなさそうだし寝ちゃったらどうしようって思う……」
 俺が知ってるの、ベートーベンの『運命』くらいだよ。マジでベートーベンだったかどうかすら記憶が定かじゃないし、そもそもあの「ジャジャジャジャーン」のワンフレーズしか知らないし。後は、曲自体はぼんやり知ってたとしても曲名も作曲者名も何もかも一致しない。
 そんな自分の無教養っぷりに若干げんなりしていると、マリちゃんは慌てたように「いえ、何もクラシックに限った話ではなくて」と言う。
「観劇とかは、もうちょっとカジュアルな感じで楽しいですよ。ドレスコードも無いですし……ミュージカルとか、あとはサーカスなんかも」
 すごい、さっきから未知の世界のことばかりマリちゃんの口から出てくる。ドレスコードが必要な遊びとかしたことないよ。ミュージカルもサーカスも未体験だ。その二つは、なんか響きだけで楽しそうだよね。
「俺どっちも行ったことないけど、楽しそう」
「じゃあ、今度どちらかに行きませんか」
 セツさんにはいつも遊びに連れて行っていただくばかりなので、たまにはおれが……と控えめに首を傾げて俺の返答を待っているマリちゃん。ただ一緒にいてくれるだけでも嬉しいのに、こんなに俺のこと考えてくれてる。「いいの? 嬉しい、ありがとう……」思わずマリちゃんの黒髪を撫でると、「当日は電車移動で許してくださいね」と言われた。許すも許さないも無いよ。車があるのはそりゃ移動は楽なんだけど、やっぱり運転に気を遣うから会話にキャパ割きづらいし。
「チケットはおれが手配します。候補日をいくつか見繕っておくので、セツさんの一番ご都合のいい日にしましょう」
「え、あの、チケット代って……」
 ぎゅっと手を握られる。「おれも、たまには恰好つけたいです。だめですか?」
 あの! 勘違いしないでほしいんだけど! マリちゃんはそんなことしなくてもかっこいいからね!?
 おれも男なので、と照れ笑いしているマリちゃんがかわいくて言葉にできない。握られた右手はそのままに、余った方の手でマリちゃんを抱き締める。この子はこうやって、たくさん「好き」という気持ちを伝えようとしてくれているんだろうなと思うと嬉しかった。無駄な駆け引きとか一切無い。だから疲れないし、優しい。
「めちゃくちゃ嬉しい。でも、無理はしないでね」
 まだ高校生なんだから。俺の八つも年下なんだから。その部分はどうにか自分の中に呑み込む。
 ――俺はこのとき、まあどんなにかかっても遊園地の入場料くらいの値段かな……とそんな風に思っていた。まさか、「観劇の一番いい席」というのが余裕で万単位のお金が飛ぶものだったなんて。知ってたら絶対、何が何でもマリちゃんだけに払わせたりはしなかったのに。
 でも今は、マリちゃんがあまりにも嬉しそうで、なんなら自分の好きなものを紹介できてちょっと得意げ、という風にも見えたから。何も知らない俺は、今はただじんわりと幸せを噛み締めるばかりだった。

prev / back / next


- ナノ -