羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 佑護は、本当にふっきれたみたいだった。初めて会った頃みたいに警戒心剥き出しで黙っていることはもう殆どなくなっていた。まだ、自分が人に怖がられているのを察したときは気まずそうに黙りこくってしまうけど、きっと誤解もすぐ解けるはずだ。
 結局、あのことは佑護にとっていいきっかけになったのだろう。珍しく言い争ってしまったりして不安だったけどちゃんと向き合えてよかったと思う。
「あ、おはよう佑護」
「ん……おはよ」
 その日は偶然、朝練帰りに昇降口で佑護と一緒になった。万里は? と聞いてみると鍵当番らしい。そういう雑用みたいなのって下級生がやらされるもんだと思ってたんだけど、弓道部は違うみたいだ。
 昇降口から廊下に入った辺りで、ふと佑護が何かに気付いたように動きを止める。視線の先を辿るとそこには件のボクシング部がいた。うげ、という顔をして視線を逸らす。「もう近付かねえ」と言っていたのに早速再会してしまって気まずいのかもしれない。たぶん飲み物でも買いに中庭に出ようとしていたところだったのだろうと思うのだが、そいつは踵を返して戻ろうとする。
「おい」
 俺は、佑護がそいつを呼び止めたことにものすごく驚いてしまった。だって普通だったら、もう顔も見たくないと思ってしまうんじゃないかなって思うから。
 そいつは無視して行ってしまうかと思いきや、きちんと振り返って佑護の方を見た。
 ぴり、と周りの空気に緊張が走るのが分かる。佑護たちじゃなくて、廊下で二人のことを見てる奴らが緊張してるんだ。まさか喧嘩が始まるなんてことは無いと思うけど――と再び佑護に視線を戻したそのとき、佑護が口を開く。
「おはよう」
「は……?」
 ボクシング部のそいつは、ぽかんとした表情で佑護を見ていた。数秒後、慌てたように「なっ、なんのつもりだテメェ」と一歩後ずさる。
「何って。挨拶くらいするんじゃねえの。あと、部の奴らに話通してくれたんだろ。ありがとう」
「お……お前に、そんなこと言われる筋合いねえんだよ。勝手にいい方に解釈しやがって馬鹿じゃねえの」
 ぎり、と佑護を睨みつけるそいつの視線からは、不思議とこの間のときの険のようなものがとれている気がする。突然話しかけられて戸惑いの方が強いらしい。
 佑護はそれを見てちょっとだけ笑った。それはひたすら穏やかで、皮肉や嘲りの感情なんて一切見えない微笑みだった。
「お前は俺の顔なんて見たくねえかもだけど。俺は別にそうでもねえよ」
「っ、なにを」
「お前のことは許した。でもそれはそれとして、お前にほんのちょっとでも罪悪感みたいなもんがあったとしたら俺の顔見るたびに気まずい気持ちになるのはいい気味だと思う」
「はああ!?」
 あ、これほんとに大丈夫そう。一歩間違えば挑発ととられてもおかしくない台詞だけれど、悪意は一切無いのが分かる。ボクシング部のそいつはこの場にふさわしい言葉が見つからないらしく、叫んだきり黙ってしまった。佑護はそこに畳みかけるように言葉を発する。
「大会、今年はもう終わっちまっただろうけど来年も出るんだろ」
「ちょ……おい、お前マジで何がしてえんだ」
「お前が負けるとこ見学しててやろうか?」
 負けねえよ馬鹿くたばれ! とついにそいつは叫んだ。佑護は事もなげに、「まあお前まともにやれば強いもんな」と返す。ほんとうに、穏やかな声音だった。
「っおいそこの、お前。剣道部。こいつどうにかしろよ、いよいよ頭オカシクなっちまったんじゃねえの」
 いよいよこちらにヘルプ要請が出てしまった。ちょいちょい、と佑護をつつくと首を傾げられる。えー、かわいい。
「佑護、どうしたの。大丈夫?」
「大丈夫、別にやけになってるわけじゃねえよ。ボクシングはできなくなったけど、ボクシングっていう競技自体はまだ好きだから」
 せっかく強い部活なんだし大会見学も悪くないかと思ったんだよ、と佑護は言った。含みは……なさそう? ボクシングをやることもだけど、観戦も好きなんだろうな。これまでは自分の中で割り切れていなくて観戦なんてもってのほかだったのだろう。佑護が今こうやって試合観戦を望めるくらいにわだかまりが解けたのだとしたら、俺にとって嬉しいことだ。
「じゃあ俺も一緒に観戦しに行こうかなあ」
 立ち去るタイミングを完全に見失ったらしいボクシング部のそいつが「ふざけんな!」と再び叫んでいるのが聞こえたけれど、俺には佑護が笑ってくれることの方が大切だからね。
「マジでっ……マジでお前ら、どうかしてる」
 どうにかそれだけ絞り出したそいつのことを、佑護はもう余計なことなんて何も言わずに見ていた。たぶんこの佑護の選択にもやもやしたり納得できない人もいるだろうと思う。俺だって、自分が怪我を負わされた当人だったとしたらこんな風にできるかどうか分からない。でも佑護は許すことを決めた。誰に強制されたわけでもない、佑護自身の意思だった。
 ボクシング部のそいつはいよいよ暴言も尽きたようだ。けれどずっと黙っているわけにもいかないと思ったのか「っつーかテメェさっきから見下ろすんじゃねえよ! 無駄にでけえんだよ!」と理不尽すぎる怒りを佑護に向けていた。
「ボクシングやめたら背ぇ伸びたんだよ」
「っああそうかよ」
 やっぱりその返しはそいつにとって地雷だったようで、若干語尾がしおれているのが分かってしまう。佑護は対照的にいきいきしてるなー。
 最終的に、予鈴が鳴ったことで俺たちは別れることになった。ボクシング部のそいつは最後まで納得いかない様子で、ぶつぶつと「あの弓道部の奴のがよっぽど話通じる……」とぼやいていた。万里のことか。普段、スポーツクラスの奴らと会うことって殆ど無いから今後そこまで頻繁に接する機会があるというわけでもないだろうけど、たぶんこれが最後じゃないな……ともなんとなく感じた。
「悪い、心配させたか」
「いや俺よりも周りの人かな……? でも、大丈夫だってみんな分かってくれてるよ、きっと」
 佑護は恥ずかしそうに俯いた。それにしても、さっきまでの会話はほんとになんだったんだ。そんな風に思っていると、佑護が「俺が、昔のこと許したっつったらなんでか分かんねえんだけど由良の方が怒っちまって」と呟く。
「せめてこれくらい言ってやれ、って……確かにそうだなとも思った」
「あーどうりで……佑護じゃ絶対あんな会話の運び方しないと思ったよ。暁人容赦無いな」
 宏隆の隣で偉そうにふんぞりかえって相手に効果的な台詞を考えているところが容易に想像できる。
 暁人は基本的に、最初に盛大にキレることで後々まで引きずらないのを可能にしているタイプだ。引きずらないというのは本人にとっても、相手にとっても。それが最良かどうかは分からない。でも、あいつのそんな性格に救われたことは何度もある。
 たぶん暁人は、佑護が相手を許す言い訳を与えてくれたんだろう。それはあの日「謝られなくてよかったね」と言った万里の考え方と根っこは似ているような、でもやっぱり違うような、そんな不思議な気持ちがした。
「はー……マジで、話せてよかった」
「うん、そうだね」
「実は一言も反応してもらえなくてさよならっつうパターンを一番想定してたんだけどな」
「あはは! なにそれやっぱ聞いてもらえないと思ってたんだ?」
「ん……でも、実際はそんなことなかった。割と普通に話せたしちゃんとふっきれられたんだって自分で分かって嬉しい」
 佑護が嬉しいと俺も嬉しいよ。もう心残りとか無い感じ? 流石にそれは口には出せなかったけど、答えはすぐに聞こえてくる。
「あー、でも」
「でも?」
「今のあいつと、試合してみたかった! 構え方とか三年前とちょっと変わっててびびったし」
 屈託なく笑う佑護を、思わず抱きしめたくなってしまう。本当に、ボクシングから目を逸らさなくてよくなったんだね。今の聞いて確信できたよ。競技は続けられないという事実から逃げるのではなくて、寄り添えるようになっている。
 一度はちょっとこじれて色々な人に怖がられるようになってしまった佑護だけど、こうして見てみるとほんとあさがおの観察日記つけてそうだ。こんなかわいい一面を色々な奴に知られてしまうのは、嫌……かもしれない。
 あんまりかわいい顔するのは俺の前だけにしてほしいなあと内心で呟いて、本鈴が鳴ったことに俺は慌てて自分の教室へと駆けこんだのだった。

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