羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 無意識に、全力で走ったりするのを避けてきた。けれど案ずるより産むが易しとはよく言ったもので、自分の体が思いの外きちんと動くことにほっとする。校舎をぐるっと回って、部室棟の集まる区画のちょっと外れに万里たちはいた。
「万里!」
 下手をすると既に手遅れかもしれないと冷や汗をかいていたのだが、万里は俺に気付くといつも通り穏やかそうに笑った。「佑護。どうしたんだ、そんな血相を変えて」
「……お前、こいつに何した?」
 自分の口からあまりにも低く地を這うような声が出て驚く。てっきり数人で取り囲んでいるものとばかり思っていたのだが、そこにいたのは一人だった。あの日試合をした相手。そいつだけがそこにいた。
「――、何も、してねえよ。そいつとはただ話をしてただけだ」
 思い切り顔をしかめられてしまって、万里を振り返って確認すると「ほんとうだよ」と微笑まれる。大牙が小さく、「怪我してない……?」とまだ整いきらない息のまま尋ねているのが聞こえた。とりあえず万里のことは大牙に任せておこう。
 ここからは、俺がやらなきゃいけないことだ。
「お前、何のつもりだ。こんなことして……関係無い奴を巻き込むな」
「は? お前こそ何勘違いしてんだ? お前の方が関係ねえんだよ、俺はそこの奴と個人的に話をしてただけだぜ。自意識過剰なんじゃねえの」
 んなわけねえだろ馬鹿かぶん殴るぞと思ったけれどどうにか堪えた。万里が怪我ひとつ負っていないのは確かだから、もしかして本当にそういう意図は無く呼び出したのかもしれないけれど……それでもやっぱり不安だ。
 俺はずっと逃げてきた。怪我をしたあの日から一歩も進めずにいた。そういうのは、もうやめる。
 背後の二人を庇うように立って、真っ直ぐそいつを見る。当たり前だけれど、中学二年の頃からは随分と顔つきも変わって、記憶と照らし合わせても僅かに面影が残るのみだった。こんなに時間が経っていたのか、と驚いた。
 そいつはちょっとだけ意外そうな表情をして、「キレて殴ってくるかと思ったのにな」と掠れ声と共に笑った。
「……言っただろ。そういうことはしないって」
「ふうん。そんなに今の生活が大事か」
「大事だ。だから、もうお前のことも無視しねえよ」
 俺としてはかなりの歩み寄りの台詞のつもりだったのに、そいつはどうしても不機嫌そうなしかめっ面を崩したくないようだった。そういえば、同じ部活だったはずなのにこうしてきちんと喋った記憶は無いなと思い当たる。……俺は、そんなに周りを顧みずに部活をしていただろうか? 部活仲間と言いつつ、ボクシングが個人競技だったこともあり、一緒に何かをしたとかそういう思い出には乏しかった。まあ、だから何だという話だが。
「お前に……言っておかなきゃならねえことがあった」
「なんだよ。恨み言か? あのときは何も言わなかったくせに」
 それは言外に「責めればいいのに」という響きを持っているように聞こえて違和感だった。こいつは何がしたいんだ? 分からない。分からないけれど、分からないなりに俺はケリをつけなきゃいけない。本当だったら怪我をした三年前に済ませておかなければならなかったことだ。俺が投げやりになって放置していたから、ここまでこじれている。それを解いてしまいたい。
 真っ直ぐそいつの目を見て、はっきり言った。
「俺は……お前を、許す」
 言った瞬間、また重荷がひとつ俺の体から外れるのを感じた。目の前のそいつは一瞬目を見開いて、苦々しげな表情を浮かべる。口元を歪めて、「心広いアピールか? うっぜえな」とそいつは吐き捨てた。無理に笑おうとして失敗したみたいな顔だった。
「そういうんじゃねえよ。全部自分のためだ。お前を許して、俺は自分の怪我を過去にする。もう気にしないことにするんだよ」
「お前、将来潰されてんのに?」
 昔も似たようなことを言われた。人生終わったと言われた。確かにあの頃の俺はそうだったかもしれない。けれど。
「今の俺には、ボクシング以外にもたくさん……大切なもんがあるから。俺の人生、ボクシングだけじゃねえし。もうグローブも捨てちまったけど、それでも楽しく生きていけてる」
 そいつは今日一番の不愉快そうな顔をした。かと思えば、突然数歩前に出て拳を振り抜いてくる。大牙の焦ったような声が聞こえた気がしたけれど、その拳を俺は問題なく避けた。きっと最初から本気で当てる気なんて無かったのだろう。すぐ構えを解いて、そいつは「……はー、シラケた。反応速度が相変わらずバケモノ並みだし」と言った。
「喧嘩はしねえけど黙って殴られるわけじゃねえからな」
「ああそうかよ。お前ならできるだろうな、そういうことも」
 割と静かに会話ができているのが不思議な気持ちだ。もっと、話し合いの余地もなく暴力沙汰に突入することも覚悟していたのに。そんな風に思っていると、「何意外そうな顔してんだクソが、俺は最初から喧嘩する気でここにいるわけじゃねえっつったろ」と言われる。じゃあ何のためにいるんだよマジで。万里と何を話したんだ。
「……三年経ったのはお前だけじゃねえんだよ」
「はあ……? あー、そうだな?」
「うっぜ。分かってない顔で頷くな死ね」
 たぶんこいつ、分かった顔で頷いても「知った風な口きくな死ね」って言うだろ。絶対言う。
「……お前とかかわってもやっぱロクなことになんねえわ。もう近付かねえよ」
「それは、ボクシング部の総意か? 周りを巻き込むなって言っといてほしいんだけど」
「俺は伝書鳩じゃねえんだよ馬鹿か!? っつーか昨日そこの剣道部にちょっかいかけた奴がいたのは別に俺が命令したからとかじゃねえぞ」
 ああ、独断だったのか。確かに血の気の多い奴ばっかだからな。でも、なんとなくこいつはみんなにもちゃんと伝えてくれるんじゃないかと思った。そういう雰囲気を感じた。気のせいだとは、思いたくないな。
 そいつは既に俺と会話する気をほぼなくしているらしく、ふらっと校舎の方に戻ろうとしていた。「最後にお前と話せてよかった」と声をかけると、すぐさま「俺は最悪の気分だ」と返ってくる。
「なあ、ひとつだけ聞いてもいいか」
「……ああ? なんだよ」
「あの日の……あれは、俺の怪我は、本当に事故だったり……」
 しないのか、と言い切る前にそいつは振り返って叫んだ。
「テメェそれ以上喋るなや! マジで脳みそ花畑だな、わざとに決まってんだろ!」
 平和ボケしたお前には弓道部がお似合いだと捨て台詞を残してそいつは走って行ってしまった。もう声をあげても届かないだろう。……別に、本気であれが完全な事故だと思っていたわけじゃないけれど。俺の怪我の度合いくらいは、あいつにとって想定外だったんじゃないかと思っていたかった。たとえ平和ボケだと言われたとしても。
「佑護! 大丈夫だった!?」
「大牙……」
 後ろから駆け寄ってきて、心配そうな表情を見せる大牙に俺は思わず笑みが浮かんだ。日常に戻ってきた感じがする。「あいつ急に殴りかかってくるからびっくりした……どこも当たってないよね?」と俺の頬を撫でてくるそいつの指先がくすぐったい。大丈夫だから、と大牙を宥めて、俺は万里に向き直る。
「悪い、巻き込んで……俺がもっと、気をつけてねえと駄目だった」
「うん? いや、おれは個人的に彼と話をしていただけだから……佑護が気に病むことは何も無いよ」
「……何話してたんだ?」
「それは秘密だよ。約束したからね」
 ふわりと笑って万里はそんな風に言った。約束、という言葉の響きとあいつとのイメージが全然繋がらなくてなんだか変な気分だが、万里の表情を見ていればなんとなく、悪いことではないのだろうなということは分かった。
 万里は優しい目をしていた。ゆっくりと口を開いて、「……謝られなくてよかったね」と言った。大牙が首を傾げて「え、なんで?」と尋ねている。
「だって、謝られたら許さなければならない気持ちになるだろう」
 万里の答えは理解できるようなできないような、抽象的なものだった。「世の中には謝っても許されないことがあるよ。謝られても許せないこともある。だからと言って謝らなくていいわけじゃないのだけれど……」一瞬言いよどんで、「ほんとうに酷いことをしてしまったときは、責められるよりも許される方がつらいこともある」と続けた。
「ううん……なんだろうな。うまく言えない。佑護は、彼が謝ったから許すのではなくて、佑護にとってその方がいいと思って彼を許したんだろう?」
「あ、ああ……」
「つまり、佑護は佑護にとって一番いい選択をできたんじゃないかってことだよ」
 きっと万里は、俺が過去を清算するきっかけを得られたことを喜んでくれているのだろう。お礼を言うと、またそいつはにっこりと笑った。「こちらこそ、言いにくいことを話してくれてありがとう。少しでも関われてよかったと思うよ」……なんというか、人格が完成されている感じだ、この歳で。そんなことを思っていると、万里がふと遠い目をする。
「ほんとうに、関われてよかったよ……帰ったら問い詰めなければならないひとがいるのが分かったし」
 その表情には少しだけ疲れが見えていて、こいつも周りを気遣いすぎるたちだからなと少し心配になった。何かあったら俺にも手助けさせてほしい。できることが、あれば。
 その後、とっくに五限の授業が始まっていることにようやく気付いた俺たちは大層慌てて校舎に駆け戻ることになった。「仕方ないから、一緒に怒られようか」と何故か二人とも楽しそうだ。同じ遅刻でも、あの荒れまくっていた頃の遅刻やサボりとは決定的に何かが違う。
 こうして、俺の心に長いことひっかかっていたものはやんわりと解けていった。それはずっと痛んでいたささくれが治ったときのような、「やっとか」という気持ちと「よかった」という気持ちがない交ぜになった不思議な感覚。
 きっと俺はもう、ボクシングをやっていた頃の自分を懐かしく思い返すことができるはずだ。

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