羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 マリちゃんの様子がおかしい。
 いや、おかしいっていうか、にこにこしてる。別に普段から無愛想ってわけじゃ全然ないんだけど、それにしたってここ最近とても機嫌がよさそうだ。前よりもほんの少しだけ距離感が近くなって、ふとした瞬間に目が合うことが増えた。目が合ったらふわって笑ってくれるマリちゃんに、俺はむやみやたらとどきどきさせられている。
 下がり気味の眉のまま目尻をやわらかく緩めるマリちゃんの笑い方、好きなんだよね。最近の俺はマリちゃんに対してどきどきしっぱなしで、もういい加減慣れてくんねーと心臓もたない、って感じなんだけど。何かいいことでもあったのかな。マリちゃんが嬉しそうだと俺も嬉しいよ。
 嬉しそうな理由について聞いてみたい気持ちもあるけど、流石にそこまで踏み込めない。マリちゃんって、差し支えの無いことなら自分から話をしてくれるタイプだし。
 でもやっぱり気になる……と物思いにふけっていると、「はよー……」と暁人が起きてきた。そういえば、最近こいつもやたら上機嫌なんだよな。んー、もしかして学校で楽しいことでもあったのかも?
「おはよう。飯どうする」
「すぐ食うー……」
「はいはい」
 スクランブルエッグと、ソーセージと、トーストした食パン。本当は野菜も欲しかったけど丁度いいのがなかった。また買っておかないとな。
 二人分を作り終えて食卓につく。「いただきまーす」と言ってスクランブルエッグにマヨネーズをかけている暁人は、やっぱりどこか機嫌がよさそうだった。
「最近学校で何か楽しいことでもあった?」
「んー? なんで」
「いや、お前機嫌よさそうだから」
 暁人は、スクランブルエッグを載せたトーストをひとくち齧った後、十分咀嚼したそれを飲み下してから言う。
「あー。コイビトといい感じだからかも? っつーか俺そんなうかれて見えた? 恥ずいね」
 えっこいついよいよ一人に絞ったの? あー、ちょっと前に「女はいらない」っつってたのは本命がいたから? 俺の気付かないうちに随分まっとうになっちゃって。
 おめでとうと祝福して、「長続きするといいな」と素直に言う。嫌味ではない。誰かに対して真剣になれるって、すごいことだと思うから。
「マリちゃんも最近なんか機嫌よさげだったから、学校で何か楽しいことでもやってんのかなって思ってたわ」
「万里?」
「うん。ふわふわしてる」
 暁人はちょっと首を傾げる。「そういやあいつ、ちょっと前おかしなこと言ってた」そんな物言いに俺は興味をそそられて、思わず「おかしなこと?」と聞いてしまった。
 暁人の口から発せられたのは、俺の思考を一時停止させるのには十分すぎる言葉。
「なんだったかな。すげー大切で好きな人とレンアイ的な意味で好きな人との区別? どうやってつけてんの、とか何とか」
 無駄に真面目だとそういうのもいちいち考えねーと納得いかないのかもなーとのんきな声をあげる弟。俺はその台詞には何も返せなくて、どうにか口の中のトーストを飲み込んでから言う。
「す……好きな人ができたってこと?」
「さあ? 知らね。でも万里ってただ付き合うだけじゃなくて結婚とか子供つくったりとかいう先のことまで考えなきゃダメっぽかった。家が金持ちだとそーいうとこも面倒そう」
 許嫁とかいたりして! と冗談めかして笑う暁人。確かに、と思って俺も一緒に笑おうとしたけどできなかった。
 覚悟はしてた。いや、してたつもりだった。そりゃあね、マリちゃんも男だし、思春期真っ盛りだし、好きな人ができたって何もおかしくないよ。結婚とか、付き合うその先のことまで見据えてるのもマリちゃんらしいなって、真面目だなって思う。マリちゃんは恋人のことしっかり考えてあげられる子だと思ってる。そういう真面目で優しいところを好きになった。
 でもやっぱきついわ。改めて、まったく望みが無いことを思い知らされる。だって俺には何も叶えてあげられないもんな。結婚とか、ましてや子供なんて。
 跡取りが必要なんだろう、きっと。そういう家だし、そういう生き方をマリちゃんはしていくのだ。
 どういう子と結婚するんだろ。長い黒髪が綺麗で、華奢な女の子かな。きっと綺麗な言葉遣いをするのだろう。字も当然綺麗で、茶道や華道を嗜んでて、もしかしてピアノを弾けたりするかもしれない。そういう子と、マリちゃんは幸せになる。
 分かっていたはずなのに予想以上にダメージを受けているらしい自分が不思議だった。期待なんてこれっぽっちもしてなかったけど、それでもやっぱり悲しい。悲しむ資格すら俺には無いと分かっていても、どうしようもなかった。
「……兄貴?」
「っ、な、なに?」
「んーん、なんでも。……手、止まってたから」
 湯気の量がすっかり減ってしまったスクランブルエッグに慌てて手をつける。冷めてしまったのは表面だけで、一口食べた下はまだ温かい。バターの匂いにほんの少し安心して、食事を続ける。
 ――大切な人と、好きな人の違いってなんだろう。
 なんでマリちゃんは、俺にとっての「大切な人」じゃ、ダメだったんだろう。気付かされてしまう。俺はマリちゃんに触れていたいし、きっとキスもしたいのだ。他の人と同じじゃ、嫌なのだ。とんだ我儘。昔から、俺は我慢が得意だと思ってたんだけどな。どうしちゃったんだろ。
 マリちゃんに触れるとどきどきするし、触れてもらえたらきっと気持ちいいんだろうと思う。気持ちが満たされる、っていうのかな。これはやっぱり、「大切な人」では収まらない。
 黙ってソーセージを口に運んでいると、暁人がふと声をあげた。
「そういや、スズカさんに会った」
「は!?」
「うわっ突然大声出すんじゃねーよ。なんか、色々教えてくれるってさ」
「お前……お前マジでこの仕事、やりたいの。後ろ指さされるかもしんねーのに」
「しつけーわ! 俺はやるっつったらやるよ。スズカさんって人スゲーね、実年齢より余裕で十歳以上若く見える」
 とりあえずバイトできるようにしてもらったから、報告しとく。そんな風に暁人は言った。まさかここまで行動力があるなんて。別にこいつのやる気や本気を疑ってたわけじゃないけど、ここまで話が具体的になっているとは思わなかった。というか、え、スズカさんが暁人に仕事教えてくれるの?
「スズカさん、こっちの世界からは足洗ったと思ってた……」
「あー、なんかつい最近ふらっと遊びに来るようになったって兄貴んとこの店長さん言ってた気がする。俺も、兄貴の弟だからっつって特別に面倒見てもらえることになった。『お兄ちゃんに色々教えてもらってるんだな』って褒められたよ」
 褒められた、という言葉に、俺も暁人もというニュアンスを感じ取って嬉しくなってしまう。それは昔、何も知らないんだなと言われてしまった俺との決別を意味しているようにも思えた。
 スズカさんに面倒見てもらえるなら俺の出る幕はまったくなさそう、と僅かに残念にも思いつつ、暁人には「頑張れよ」と声を掛ける。「任せとけって!」と歯を見せて笑う弟は頼もしくて、ここまで頑張ってきてよかったな、と改めて強く思った。
 俺の気分がオチてるのを察して話題を変えてくれたのも有難くて、ぼんやりしてるとさっさと追いつかれて追い越されてしまうな……なんて考える。怖くもあり嬉しくもあった。そう簡単に負ける気は無いけれど、弟の成長を傍で見ているのはきっと楽しいはずだ。暁人が作るカクテルはどんな味がするんだろうか。
 いつか飲ませてくれるのを期待して、今は見守っていよう。
 俺も久々に、横でちゃんとスズカさんに見てもらいながら作りたいなあ……と思ったのは、まあ、恥ずかしいから内緒だ。

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