羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 どうにか走って二十五分で高槻の家に到着することができた。たぶんオレが電話をかけたときは外だったと思うんだけど、高槻はちゃんとそこにいた。……和服はもう、着ていない。
「何食いたい? っつーか買い物ついてきて。料理すんの久々だから食材がねえんだよ」
 その言葉はかなり意外だった。そういえばさくらちゃんが体調を崩してから、金曜の昼に一緒に飯を食うこともなくなっていたから気付かなかったのか。
 いや、でも、ちょっと待ってよ。
「お前、料理久々って……自分の飯どうしてんの?」
「あー……コンビニとか。一人だと面倒であんま食う気しないんだよな」
 一人とはどういう意味だ。お父さんがいるはずなのに。オレの疑問を高槻は汲み取ってくれたらしく、気を付けていないと聞き取れないくらいの小さな声で「……あいつは俺の作ったものは絶対食わない」と言った。
 ……そうだ。前にこいつに話を聞いたときほんの少しだけ違和感があったのを思い出した。家族には、料理を作ったりしないのか。さくらちゃんは体調のせいで食べられるものに限りがあったというのは後から分かった。でも、高槻の家族はさくらちゃんだけではないはずだ。
「な……なんで?」
 呟く。思わず口からこぼれてしまったそれに、高槻は悲しそうな顔で笑って「そんなの俺が知りたい。……ずっと、知りたかった」と俯いた。
 この家族は互いに支え合って思い遣って生きているように感じるのに、どこか歪だ。
「……なあ。早く行こうぜ、暗くなる。何食いたい?」
「えっ。えーと、えーっと……グラタン! が、いいなー……」
「具は? 肉? 魚?」
「魚がいい」
「じゃあサーモンとほうれん草にするか」
 高槻の表情は、オレの言葉で明るくなったように見えた。「お前、自分じゃ料理しねえくせに作るの面倒なモンばっか好きだよな」えっマジかよ。全然自覚が無かった。でも高槻、嬉しそうにしてんだよなあ。
 スーパーで食材を買い込んで帰ってきてから、高槻は早速調理を開始した。ちょっと前までならこの時間でさくらちゃんと喋っていたのだと思うと改めて喪失感を覚える。
 三十分ほど経っただろうか。「オーブンで焼いてるからあと十分くらい待って」と言いながら高槻がオレの隣に座った。
「お前の分は?」
「ある。隣で買い物見てたじゃねえか」
 オレは一人分が大体どのくらいの材料でできるのかも分からないんだよ。とりあえず今日はまともに夕食を食べる気があるみたいでほっとする。
 しばらくは無言だった。チーン、とオーブンが音を立てて、高槻がそれを聞いて腰を上げる。鍋敷きの上に二つのグラタン皿を載せたそいつは、少しだけ迷うような素振りをして片方の皿から中身をほんの少し小皿に移す。
 ああ、さくらちゃんの分だな、ってすぐに分かった。
 あいにくオレには仏様にご飯をあげることについての作法はまだよく知らなかったけど、こういうのは気持ちが一番大切だと言うし何も問題無いだろうと思った。「オレもついていっていい?」と聞いて、高槻が頷いてくれたのを確認してから、生前さくらちゃんが寝起きしていた部屋――今は小さな仏壇がそこにあった――に入って、本当に久々にさくらちゃんに挨拶をする。前と同じように線香をあげると、白檀の独特な香りが辺りに漂った。
「……俺たちも食うか」
「ん。そうだね」
 ダイニングテーブルに戻っても、グラタンは十分温かかった。いただきますとは言ったもののオレの舌にはまだ熱過ぎるくらいだ。少し冷ましておこうと思って、色鮮やかなサラダに先に手をつける。……ドレッシングが手作りだった。いつの間に作ったんだこいつ……。
 たぶん数ヶ月ぶりに食べたそいつの手料理は、やっぱりとても美味しかった。
 サーモンは丁寧に骨が取ってあって、きっとさくらちゃんに作るときもそうしていたんだろうなというのがうかがえた。こいつの作る料理はとても優しいのだ。トマトや苺のヘタも絶対に取る。高槻は、緑のいろどりが欲しければ他に食材を足すタイプだった。
「ごちそうさま。やっぱ美味いね」
「お粗末様。……ありがとう」
 皿を洗おうとする高槻の腕を少し強引に引いてソファに座らせた。怪訝そうな顔のそいつに「今日は、お前の話を聞きに来たんだよ」と言うと、そいつは僅かに唇を噛んだ。
 一人で抱え込まないでほしい。もうこれ以上頑張らないでほしい。伝えるのが遅くなってしまったけど、今日はこの目的を果たすまで絶対に帰らない、と強く思った。


「……情けねえよな。もういよいよ危ないってなったとき俺とか親父の方が焦っちまって、さくらに心配されたよ」
 そんな言葉から始まったそいつの話は、まるで懺悔のようだった。
「正直まだ実感無い。涙も出なくて、葬式とかあっという間で、火葬の後の骨見て『これしか無いのか』って思った」
 事務的な手続きで慌ただしいのが終わってから、もう何もしたくなくなった、と高槻は言っていた。でも何かしていないと落ち着かなくて不安だった、とも言った。
「俺さ……あんまり、自分が頑張ってるって意識は無かったんだよ」
「え?」
「さくらの面倒みたりとか。あいつは俺の妹なんだから、俺があいつのために何かするのは当たり前だって思ってた。見返りなんていらなかったし、さくらにはそれを当然だって思っててほしかった」
 なんだろう。オレはそれを聞いて、しんどいなって思ってしまった。だって高槻は、家族でないオレから見ても十分以上に大変なことをやっている風に見えたのだ。それを自分の頑張りとしてカウントできなかったこいつは、毎日どうやってつらさを消化してきたのだろう。自分の気持ちと折り合いをつけてきたのだろう。
「さくらは俺の重荷なんかじゃなかった。絶対そんなんじゃなかった……だけど、自分の学校のこととか色々、あんまり考えたくなかったんだ」
 忙しくしてると何も考えなくて済んだ、と高槻は寂しそうに笑った。自分に関することを考えたくなかったらしい。
「……今から最低なこと言う。聞き流して」
「約束、は、できないかも……」
「嘘でもいいから『分かった』って言えよ。……さくらが死んで……悲しかったはずなのに、ほっとした」
 ぎくりと体が強張る。高槻の顔が見られなかった。
「別に押し付けられたわけじゃない。俺が自分で決めたことだ。大変さで言ったら俺より親父の方が断然大変だったし、一番つらい思いしてんのはさくらだった。でも……俺だってほんの少しくらいは、大変だったしつらかったよ」
 こいつがこんな明確に弱音を吐くのを、もしかして初めて聞いたかもしれない。どうしようもなく心臓がずきずきするけど、でも、言ってくれてよかったと思う。これを隠さず言えるようになってよかったと思う。
「たぶん、他の奴が同じことしてたら『入院させろよ』って言ったと思う。でも自分じゃできなかった。だってさくらには本当に時間が無かったんだよ。あと何日一緒に飯食えるか分かんねえのに、学校帰りと休みの日に会うだけなんて無理だ」
 怖かった、と高槻は付け足した。何が怖かったのと尋ねたら、「さくらがいつか死んじまうかもしれないのも怖かったし、さくらが死ぬより先に俺があいつのこと嫌いになったらどうしようって毎日怖かった。……自分の限界がくるのが怖かった」と返ってきた。
 ――高槻の最大の不幸は、こいつ自身が溢れんばかりの才能に恵まれてしまったことなのかもしれない。
 年齢が二桁にもならないような歳で家族の食事を作り始め、妹の介護をしながら家事を一手に担うということを――こいつは諦めずに済んでしまった、のだ。例えばこいつがもう少し不器用だったら、要領が悪かったら、すぐ限界がきてさくらちゃんは入院生活に戻っていたのではないかと思う。
 けれどそうはならなかった。なぜならこいつはとても器用で、要領がよくて、身体能力にも健康にも恵まれて、なんでもできる奴だったから。
 高槻のキャパシティは大きすぎた。スペックが、高すぎた。それがこいつの最大の不幸だ。

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