羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 当たり前だけど夏は暑い。大会当日はそれはもう見事なカンカン照りで、俺は会場まで歩く間に首を伝った汗を乱暴にぬぐった。
 最初から、午前中だけで帰ろうと決めていた。スポーツ観戦は好きだけれど、こういう勝負の空気に長く触れているのはまだしんどいなと思ったから。そういう意味で、俺は弓道部に入ってよかったのかもしれない。弓道で目の前に見えるのは的だけだ。確かに点数で他人と優劣はつくけれど、昔の自分の記録を超える、という意味合いの方が強く感じる。
『弓道は「道」だからね。たとえ今日から始めたひとでも、心がまっすぐ弓道と向き合っているなら、弓道が上手、って言えるんじゃないかな』
 確か万里はそう言っていたのだったか。道、か。武道というのは、歩みなのだろう。
 剣道も、道だ。
 俺は、城里のことが好きだとまだ自分で気付いていない頃、あいつにボクシングの話を振られたことがあったのを思い出した。そうだ、そのとき言ったのだ。雨の日はまだ膝が痛むと。城里はそのときも、俺の膝をそっと撫でた。「まだ筋トレしてるって言ってたよね。ボクシング用の?」と静かに呟いた。
「いや……別に。ほんとは意味ねえんだけどな、こんなことしても。どうせ復帰はしねえし」
「絶対に無理って言われちゃったの?」
「リハビリすればいけるかもって言われた。でも、もういいんだ」
 城里の母親は看護師なのだそうだ。きっと俺のような人間もたくさん見てきたんじゃないだろうか。城里はそういう話を母親から聞くこともあっただろう。だからなのか、あいつは安易に「きっと治るよ」とは言わなかった。
 代わりにあいつはこう言った。「もういいっていうのは、怪我をしたから?」
 別に正直に答える必要なんて無かったと思う。俺が答えなくても城里は何も言わないだろうと分かっていた。けれど正直な言葉が出てきたのは、俺があいつに聞いてほしいと思ったから。
「怪我、も、あるけど。一番の理由は――裏切ったから」
 城里はそのときほんの少しだけ表情を変えた。俺の答えが予想外だったのかもしれない。
「俺、割と小さい頃からボクシングやってて……練習きつかったけど勝てると楽しかった。俺はもっともっと上手くなれるって思ってた。……好きだったんだよ、やっぱ」
 好き、だった。大好きだった。今はもう拳ダコもすっかり消えてしまって、それが少しだけ悲しい。
「お前も聞いただろ。俺、部活仲間を殴った」
「……うん」
「たぶんあのとき、俺は終わったんだろうなって思う。怪我したときじゃなくて、ボクシングのために鍛えた拳をボクシング以外で使ったとき」
 そうだ。決定的に気力が潰えたのはあそこだった。試合に勝つためじゃなくて人を殴るために拳を使った。それは、絶対に駄目だ。
「――俺が裏切ったのは、ボクシングが好きだった頃の自分」
 言い切ったとき、ふっと肩の荷が下りた気がした。明確に言葉にして、もう二度とボクシングのためには頑張れないな、と思った。そんな資格は無いな、とも。
「もう俺には、ボクシングを好きだって言う資格も無いから……二度としない」
 また無駄に重い話を聞かせてしまったと後悔したけれど、それでも聞いてくれたのが城里でよかったと思った。
 城里はそれまで黙って俺の話に相槌のみで応えてくれていたのだが、俺が最後の言葉を言い終わるやいなや「だめだよ」と言った。その表情は少しだけ怒っている風にも見えて俺は大層慌てた。あいつははっきりと、俺の言葉に切り込んだ。
「ボクシングを好きだって気持ちまで否定しちゃ、だめだよ」
 いつの間にかそれは、諭すような声音になっていた。
「怪我は残念だったし、喧嘩もいけないことだけど……佑護がボクシングを好きで、頑張って練習してきたって事実はなくなったりしないよ。なかったことにしちゃだめだよ、それは」
 自分で自分を傷つけようとしないで、と城里は言葉を結んだ。俺はそんな風に見えているんだろうか。まだ、ボクシングを好きでいていいのか、俺は。
 いいことも悪いこともなかったことにはできない。城里は更にそう続けた。……俺の話なんかよりよっぽど重かった。
 その後だ。あいつが俺に、「何か新しいこと始めようよ。今の佑護がまた一から好きになれること」と提案してきたのは。
「俺としては剣道をおすすめしたいけど、あれ膝に負担かかるからなあ……あ、水泳とか? それとも万里と一緒に弓道とか!」
「うちの水泳部、基礎練習めちゃくちゃきついだろ……弓道って膝使わねえの?」
「た、たぶん……?」
「はは、そこ曖昧なのかよ」
「わ、笑うなよー! 万里に聞いとくから!」
 なかったことに、できない。俺が城里のことを好きになったという事実も、なくせない。
 あのときのことを思い出して俺はそっと息を吐いた。困ったなという気持ちと気恥ずかしさと、色々なものを含んだため息だ。ひょっとするとあれで城里のことを明確に好きになったのかもしれない。
 なんて、考えながら歩いていると会場に着いていた。確かに観客はまばら……なのかもしれない。俺は、知り合いに会いませんようにと祈りながら空いている席におとなしく座った。
 うちの学校の試合までじっと待つ。この、真剣勝負のときの肌を焼くような感覚が好きだ。他には何も考えなくてよくて、ただ勝つためだけに息をしているって感じがする。
 久々の感覚に浸っていると、どうやら出番が回ってきたらしい。剣道って防具に名前がでかでかと書いてあるから遠目でも分かって便利だな、なんて考えつつ城里を捜す。時間が朝早いと言われていたはずだけれど、いつの間にかもう昼前だった。あいつの幼馴染は夜型だから、もしかするとあいつも午前中ならまとめて「早い」という認識になっているのかもしれない。
 ――いた。あそこだ。
 まだ面をつける前だったみたいで、普通に顔を見ることができた。集中しているときのぴりぴりした感覚がこちらまで伝わってくるように思う。ふと城里が顔を上げて、視線だけをぐるりと巡らせた。
 目が、合った。
 いや、目が合ったような気がしただけかもしれない。けれどあいつは薄く笑った。挑むような目つきだった。そこで見ていろ、と言われた気分だ。こんな広い会場で俺のことを捜すのは無理だろとも思うのだけれど、俺からあいつが見えているということはあいつからも俺は十分見えるくらいの距離だということで。可能性を捨て切れなくて、自分の女々しさに苦い思いをした。
 城里の表情はすぐに防具で隠れて見えなくなる。客席のざわめきが遠くなって、視界が狭まって、あいつのいる場所しか目に入らなくなる。剣道のルールなんて分からない。せいぜい、面と胴と、あとは籠手……に、当てれば勝ち、くらいの知識しか無いし、それ自体正確なものか曖昧だ。
 けれど、その道に則った礼儀作法があるのだということは、肌で感じた。一礼をするさまはうつくしかった。
 剣道特有の鋭い掛け声が会場内の空気を裂く。確か剣道って、三本勝負……だったっけ。まずはあいつが先取したらしいということが、審判の旗の動きで分かった。
 確かに剣道の試合というのは、一般に馴染みが薄いかもしれない。何をやっているか分かりづらくて、竹刀の動きを目で追うのも難しいかもしれない。でも、俺は今日、これを観に来てよかったと思う。
 視線の先で辛うじて、城里の竹刀が相手の胴をとらえたのが見えた。
 審判が下る。あいつは宣言通り、勝ってみせたのだ。しかも、見る限りストレート勝ち。やっぱりあいつは強かった。初めて会った日に感じたことは間違いではなかった。
 いつの間にか俺まで拳を握り締めていたことに今更気付いて力を緩める。試合はどんどん進んでいくのに、俺の気持ちは城里の見せてくれた試合に取り残されたままだ。心臓が高鳴っている。観ているだけで、鳥肌が立っていた。
 俺は、うちの高校が団体戦を無事勝ち抜いたのを見届けてからそっと席を離れた。大会は昼休憩に入っていた。

prev / back / next


- ナノ -