羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 おれは、暗澹たる気持ちで歩いていた。原因はもちろんさっきの親戚だ。あの人たちが来ることは知っていたけれど、まさかあんな無礼なことをするなんて。確かにセツさんは髪の色が目立つし、ピアスの類は初見では驚くかもしれないけれど、とても素敵なひとなのに。
 申し訳ないことをしてしまったな、と思う。気を悪くさせただろう。不躾な視線はおれも嫌だ。
 どうせおれも挨拶をしなきゃならないんだよな、と気の進まないまま大広間に向かう途中、なんだか凄まじく嫌な予感がした。……姉さんの声が聞こえる気がする。
 慌てて障子を開けると、「なんだその言い草は!」という男性の大声が耳に飛び込んできた。障子の前に仁王立ちしていた姉さんにぶつかりそうになったのをどうにか踏みとどまって室内の様子を窺う。「ああ、万里。おまえは部屋に帰っていてもいいんだよ」と姉さんの優しい声がする。
「ね、姉さん……大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。楽勝だよ。あまりにも失礼な物言いをしていたから反論してやっただけさ」
 ああ、察してしまったかもしれない。怒りの収まっていないらしい親戚たちは、不愉快そうな顔で、あんな品のない人間と付き合いがあるなんて恥ずかしくないのかというようなことを言った。――おれのことを言っているのか。おれと、セツさんのことに、口出しをしているのかこいつらは。
 おれは自分が結構温和な方であると思っていたのだけれど、一瞬で頭に血が上るのを感じた。拳を握り締めたせいで爪が手のひらに食い込む。痛みを感じる余裕も無い。
 きっとあと数秒もあれば何か言い返してしまっていただろうと思う。ひょっとすると怒鳴っていたかもしれない。けれど、姉さんが口を開く方が先だった。
「いい加減にしなよ、見苦しい。あなたたちこそ親戚の子供の交友関係に口を出したりして、恥知らずという言葉がぴったりじゃないか。万里にはこうはなってほしくないね」
 おれのことを後ろに庇って、わざと挑発するようなことを言う姉さん。自分の年齢の倍以上もある人に対してまったく怯んでいない。自分の前に立つ姉さんを見て、いつのまにか身長を追い越してしまったんだな、とおれは場違いなことを思った。
 身長は抜いてしまったけれど、姉さんの背中は今もこんなに大きい。
「わたしはあなたたちなんかよりも万里の人を見る目の方をよほど信頼しているし、万里が周囲に簡単に流される人間ではないこともきちんと分かっているよ。あなたたちはせいぜい自分の心配でもするといい。融資の相談に来たのではないのかな? 子供に八つ当たりしている暇があったらせっせと働くべきだろう」
 後半は流石に言いすぎだと思った。親戚たちも図星をさされて怒りを煽られたらしい。そもそもおまえがそんなふざけた髪の色をしているから弟の感性もおかしくなるんだ、とか、攻撃対象が姉さんに移ってしまった。けれど姉さんは自分が標的になったことで余計にいきいきし始めて、心底楽しそうに言葉を続ける。
「だから、万里はあなたたちとは違って自分をしっかり持っていると言ってるじゃないかしつこいな。わたしはこの子のように優しくはないよ。いくらでも言い返す。なんてったって品が無いからね!」
 姉さん、あまりにも楽しそうだな。確かに好戦的なひとだけど、そんなに楽しそうに喧嘩をされると怖くなる。後で色々と言われるのは姉さん自身だから、心配だ。
「とにかく、わたしたちと同じ名字を名乗っているくせに恥を晒さないでほしいな。次わたしの弟にふざけたことを言ったら……まあ、それはそのときのお楽しみだ」
 最終的に完全な脅し文句という感じの言葉で会話を結んで、姉さんはおれに向き直る。「万里、行こうか」そのまま笑顔で大広間から連れ出され、おれはどうにか姉さんにお礼を言った。
「姉さん、すみません。言い争わせてしまって」
「おまえが謝ることではないよ。ふふふ、喧嘩の口実ができてよかったくらいだ」
 あいつら前から気に食わなかったんだよねえと笑った姉さんに乾いた笑いが漏れた。そして、「それにしても、」と姉さんが続けた言葉に、おれは少しだけ動揺する。
「おまえがちゃんと怒ることのできる子でよかったよ。あはは、兄さんに似て目つきが悪いから迫力満点だね」
「そ、そんなに顔に出てたんだ……」
「出ていたね。……おまえのご友人、素敵な方じゃないか。優しそうだ。遠目でも綺麗な金髪だって分かったよ」
 そう、セツさんは優しいひとなのだ。姉さんは分かってくれている。それだけでなんだか嬉しい気持ちだ。
「美希さんが、『わたしも一度は金髪にしてみたいわ』とおっしゃっていた」
「それは絶対に止めないとだめだよ……」
 五十を目前に控えた母親の金髪は流石に見たくないぞ。そもそも瞳が真っ黒だからあまり似合わないと思う。というか、二人とも一体どこから見ていたんだ。
「ああ、そういえばこの後兄さんが挨拶に回るのか。嫌味を言われていたらどうしようかな……兄さんはお優しいからあまりああいう輩に強く言えないみたいだし、わたしのせいで兄さんが煩わされるのも申し訳ない」
「あ、一応そういうの考えるんだ、姉さんも」
「当たり前だろう、と言っても説得力は無いかな。ふふふ。わたしのこの立場はわたしの手柄ではないのだし自重しないと……でもまあ、弟も護ってやれない姉になるよりは随分マシだよね」
 おまえは賢くて優しい子だ、と背中を軽く叩かれる。姉さんは兄さんのフォローに行くと言って来た道を戻っていった。去り際にぼそっと「……金髪もいいなあ」と言っていたのが少し怖かった。明日辺り金髪になっていたらどうしよう……。


 部屋に戻って一息ついて、おれは姉さんの言葉を改めて咀嚼していた。怒ることのできる子でよかった、と言われたな。姉さんからも、遠慮しすぎだと思われていたのだろうか。
 セツさんについて考える。きっと少なからず傷つけてしまったに違いない。おれと一緒にいたせいでセツさんまで悪く言われてしまった。姉さんは庇ってくれたけれど、本当だったらあれはおれが怒らなければいけない場面だったはずだ。
 おれ自身のことなら色々言われても我慢する。でもおれをだしにしてセツさんを傷つけないでほしい。セツさんは「慣れてるから気にしなくていいよ」と言ってくれたけれど、そんなこと言わせたくなかった。慣れてるなんて、そんな悲しいことを。
 障子を細く開けてぼんやりと空を眺める。薄い雲が風に流されていって、吹き込む北風が冷たかった。何故だかその風に、セツさんの手の感触を思い出す。指先の皮膚がかさついていて、よく見るとあかぎれのような細かい傷がいくつもあった。きらびやかなイメージとはちょっと外れた、苦労のうかがえる手だった。水仕事が多いのと、家事もやっているから治す暇が無いのだろう。
 痛そうだったので、薬とかは塗らないんですかと聞いたら「途中で面倒になっちゃって続かなくて」と恥ずかしそうに言われた。幸いアレルギー等も無いからと色々試してみたこと自体はあったらしいが、どうしても自分のこととなるとこまめにケアする気になれないのだそうだ。別に男の手が荒れていても支障は無いと言ったセツさんは、それでも最後にぽつりと「まあ、たまにちょっと、痛いんだけど……」と呟いてやっぱり恥ずかしそうに笑った。
 セツさんにとって、痛みを訴えることは恥ずかしいことなのだろうかと思うとなんだかおれまで痛かった。弱音を吐くことは笑って誤魔化さなければならないことなのだろうかと思うと、それを和らげることができればと感じた。
 セツさんの傷を癒すことができたら、と思う。おこがましいかもしれないけれど。
 おれは長らく開けていなかった引き出しの中を漁って、便箋と封筒を見つけ出した。縦書きの便箋で、白い紙に雪と南天の赤い実がデザインされているものだ。綺麗だと思って買ったはいいが使う機会がなくてしまい込んでしまっていたのだけれど、どうやら絶好のチャンスが訪れているらしい。
 おれはおれにできることをしよう。
 鉛筆と、万年筆と、インク壺を机に並べて準備は万端だ。机に向かったおれは、結局そのまま書き出しの一文を考えるのに三十分近く使ってしまって、ちょっとだけ兄さんの気持ちが分かるようで人知れず笑みをこぼした。

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