羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 いかにもチャラチャラした来訪者がいなくなって、遼夜が一人で部屋に戻ってきて、俺はようやく息を吐いた。
「あー、緊張した」
「……おまえ、緊張していたのか? あれで?」
 疑わしげな表情を向けてくる遼夜は先程までの畏まった口調ではなくなっていて、俺はというととても気分がいい。
「俺は人見知りなんだよ。それに、ああいう奴は元々あんま得意じゃねえし」
 なんだよあの金髪ピアス。びっくりするだろうが。
 っつーか普通に高槻を思い出すから嫌なんだよな……と俺は内心文句を垂れつつ貰った名刺を見返す。たぶん、ここから車で五分くらいの――徒歩なら二十分弱の場所にある繁華街のクラブだろう。こちら側から向かうにはなかなか道が入り組んでいるため車では最短距離が走れず、寧ろ徒歩の方がアクセスには便利なところだ。成人してすぐの頃に、後学のため一度だけそういう類の店に行ったことがある。今のところ役立ったことはない。残念至極である。仕事で役立つことを期待するか。
「奥はもう少し柔らかい言い方をすればいいのになあ。みんなに誤解されるだろう」
「何が誤解だよ。この童顔から性格イメージされた方がよっぽど誤解生むっつーの」
 既に二十を二つほども超えた歳なのだが、未だに煙草を買うとき年齢確認をされるのは屈辱だ。酒だって人並みには飲める。絶対弱いと思ったのにって、喧嘩売ってんのか買うぞ。言い値で。
 遼夜はそんな俺を見て、仕方ないなあとでも言いたげに目を細めて笑う。三白眼気味の目と薄いくちびるのせいで普段は冷酷そうに見えがちな遼夜だけれど、本当はすごく繊細で優しい。傍で見ているこっちが心配になってしまうくらいには。
 俺の心配なんてきっと露知らず、遼夜はまだ着物の衿の位置が気になるのか改めて直している。伏し目がちの瞳と俯いたことでほんの少しだけ露わになったうなじが色っぽくていいなあと思う。
「っつーかなんで突然腕立て伏せ?」
「いや、作業が行き詰まったから気分転換というか、切り替えがしたくてね」
「ふーん……なに、部活とかでもこういうことしてたわけ。誰か乗せた?」
「あはは、するわけないだろうそんなこと。本で読んでおれにもできそうな気がしたからやってみただけだよ」
 負荷ばかりかかって危ないから二度としない、というか腰が痛い、と笑ったそいつは発言の内容だけ聞いてると完全に馬鹿って感じなんだけど、俺の前でくらい馬鹿やってくんねえと逆に心配だから別にいい。っつーか初めてやったのかよ。突然「ちょっと上に乗ってくれ」って言われたから何事かと思ったんだぞこっちは。
 気分転換に筋トレって俺だと絶対出てこない発想だからなんか面白い。運動してるときのこいつは目に見えて楽しそうだから俺も楽しい。息があがってるのとか、見てて飽きないし。
 そういやさっきはそのささやかな楽しみをあの金髪に邪魔されたんだよな、とムカついて、目の前のうなじにそっとキスをする。
「っ、奥」
「理由は言わないけど慰めて」
「ええ……? それはおれのせいなのか?」
「いや全然。でも煽った責任はとって」
 上に乗ってとか、俺以外の奴に言ったらぶっ飛ばすぞ相手を。
 遼夜はよく分かっていなさそうだった。こいつ物凄く察しがいいし気も遣えるのにこういうとこ鈍いのなんでなんだろうな。そこも好き。
「……とりあえず帯に触るんじゃない。ほどけるから」
「一旦解いた方がよくねえ? っつーか着物で腕立てとかするから乱れるんだよ」
 なんて言いつつまさか本当に解くわけにもいかないので軽く襟を整えてやると、遼夜はふわっと笑って「ありがとう」と言った。……マジで帯解いてやろうか。いやそれにしても家では常に和服って凄い。動きにくくねえのかな。俺にはとてもじゃないが真似できない。畳で正座すら数十分で足が痺れてやばいのに。
「まったく、どちらかというと今日はおれが慰めてほしいくらいだよ」
「これから親戚に挨拶すんだっけ?」
「うん……今日来ている人たちはちょっと苦手なんだ。また美影さんが問題を起こしていなければいいのだけれど」
 ああ、やんちゃが過ぎる従妹の話か。一度も見たことは無いがかなりのおてんばらしい。こいつは自分の母親のことも下の名前にさん付けで呼ぶから昔はよく混乱したな、と懐かしくなる。家柄だの家督だの跡継ぎだの、七面倒で俺にとってはどうでもいいようなことに遼夜はいつも煩わされているのだ。
 高校時代からこいつがずっと言ってきたことがある。「あの家の土地財産も地位も家柄も、全ておれの功績でも何でもないのになあ」こいつのことなんて何も知らない他人に何か言われるたび、羨ましがられるたび、困ったように笑って後でこっそりと、俺にだけそんな本心を漏らしてくれた。「たまたまあの家に生まれて、たまたまそれが一番最初だったというだけで。おれ自身には何もないし、偉くも豊かでもないんだよ。親戚はどうも、おれの名字しか見ていないようだけれど」高校生らしからぬ口調でそうやって滔々と喋る遼夜を見て、ああ、傍にいてやらなきゃな、と自然に思った。
「お前がお願いしてくれれば、いくらでも慰めてやるしでろっでろに優しくしてやるけど」
「……そうは言っても、おまえはいつも優しいだろう。これ以上甘やかされても困る」
「んだよ、嬉しいこと言ってくれんじゃん」
 好感触な反応だったのでそのまま口を塞いで舌を差し入れると、僅かな間をあけて遼夜は控えめに応えてくる。こういうとこもいちいちお上品っつーかお育ちがよさそうっつーか。たまにはがっついてくれてもいいのに。恥ずかしがってるのもいいけどさ。
 調子に乗って咥内を掻き回していると羞恥に耐えられなくなってきたのか、ぐいっと体を遠ざけられる。この状態では残念ながら、腕力ではまったく敵わない。素直に解放する。
「ん……は、あまり、日の高いうちからは、やめないか」
「学生なんて人生で一番風紀乱れてていい時期じゃねえ?」
「真っ昼間は嫌だろう普通に……そもそもおまえ、卒論の口頭試問がもうすぐなのだし。こんなことしていて大丈夫なのか」
「あー、卒論自体は書けてるし提出済みだからな。っつーかお前もじゃねえの」
「おれは卒論用に一本原稿仕上げて提出したからそれで……」
 ああそっか。こいつはそうだよな。なんだか俺まで感慨深い。こいつの陸上競技者としての道はほぼ俺が絶ってしまったようなものだから、こいつが楽しそうに物語を紡いでいるのを感じられると安心する。まあ、執筆に詰まるとさっきの腕立て伏せみたいに奇行に走ったりもするけど。
 遼夜が、「そういえばどうしていきなり家に来たいなんて言ったんだ。これまで来たことなんて無かっただろう」と不思議そうな顔をしたので俺はそれに「ちょっと、決意表明ってやつ」なんて返す。
「……なあ。次は絶対仕事でここに来るから、待ってて」
 囁いて、まなじりに唇で触れた。
 俺の高校時代からの夢はようやく、ようやく叶いかけている。死ぬ気で就活をした。内定をもぎ取った。内定式は終わって卒論も提出した。卒業も入社も問題なく可能だろう。出来る限り早く、出来る限り長く、こいつの作品に係りたい。
 遼夜は優しく目元を和らげた。それだけでも十分だったのに、「……いつまでも待つよ。おまえがいてくれて、よかった」と俺の頬を撫でて嬉しいことを言ってくれる。
 ひょっとするとこのままヤれるんじゃねえのってくらい甘い雰囲気だったんだけど、遼夜は何かに気付いたような顔で姿勢を正して「そういえば」とまるっきり話題を変えてしまった。
「おまえ、あまり人前であんな、きわどいことを言うのはやめてくれ……ひやひやする」
「ああ、馬に蹴られるとか?」
「馬に蹴られるとか。怯えていたぞ、あのひと」
「怯えてたってそれ意味分かってねえってことだろ。ん? 分かったから怯えてたのか? まあどっちでもいいけどよ……堂々としてたら案外ばれねえって」
「……高槻と八代は」
「高槻は勘がよすぎるし八代は頭がよすぎるからどのみちばれてただろ。っつーかあんだけつるんでてばれねえのは無理」
 八代はともかく高槻にまでばれたのは予想外っつーか普通にびびったけど。寧ろあいつの方が気付くの早かったしな。
 遼夜もなんだかんだ思うところがあるようだった。「……まあ高槻は割と話を聞いてくれたりしたな、そういえば」と笑う。は? なにそれ? 初耳なんだけど?
「お前……他の男に俺とのことを話してんの……?」
「やめろやめろそういうことを言うな。おれがあいつに怒られるから。別に世間話程度だよ」
「その世間話にキレずに付き合ってくれるあいつすげえわ。っつーかそういや俺もあいつに似たようなことしてたの今思い出した」
 こういう話って意外にも八代より高槻の方がまともに聞いてくれるんだよな。八代はなんつうか雑。「愛があれば大丈夫じゃね。知らないけど」で全部まとめようとする。流石に無理がある。
 なんかこう、物事を解決したいときは八代で、話を聞いてほしいときは高槻、みたいな。あいつらはそんな感じ。
 高槻は気に食わねえ部分が多いけど、こう、トータルで考えるといい奴ではあるんだよな……気に食わねえんだけど……。高校のときの話だから記憶もおぼろげになりつつある。もはやどこが気に食わなかったのか思い出すのに時間がかかりそうだ。……あ。遼夜がやたらあいつをべた褒めするのがちょっと妬ける。
 複雑な男心を持て余していると、遼夜が静かに立ち上がった。どうやら今日は時間切れらしい。
「はー……よし。いってくる。表の門から出ない方がいいぞ、つかまったら面倒だろうし」
「お前の家人多いよな……ま、次は俺の家にでも来て。この離れの半分も面積無いけどな」
「一人暮らし、いいなあ」
「エロいことたくさんできるぜ」
「そっちはべつにいいなあじゃない……」
 なんだ違うの。いいけどさ。俺は立ち上がって、少しだけ踵を浮かせて最後にもう一度キスをした。
「いってらっしゃい」
「ん……ありがとう」
 遼夜は、これから三が日が終わるくらいまでは家のことで忙しい。邪魔はしたくないから、これでしばらくはお預けだな。
 家用――というか来客用にまた雰囲気が少し変わる遼夜。こいつがあまり心を痛めるようなことがありませんように。
 使用人用らしい裏口からこっそり遼夜の家を後にして、舗装された道を速足で歩く。なんだか今日は凄まじく邪魔が入りまくった気がする。憂さ晴らしに高槻の店にでも行ってやろうか。あいつ嫌がるだろうな。
 それはそれで愉快だからいいか、と結論付けて、俺は急遽乗る電車を変更したのだった。
 ……そういえば今日クリスマスじゃねえか。クリスマスの終わりに見る顔があいつって、なんか無駄にご利益ありそうで嫌だな。

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