羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 家の玄関の鍵を開けて、夜だからそっと体を中に滑り込ませる。部屋は暗い。暁人も女のとこに行ってんのかな、と思いつつ、上の空だったのがいけなかったのかもしれない。電気もつけずに自分の部屋までリビングを突っ切ろうとして、俺は何かに盛大につまづいた。
 驚きのあまり声も出ない。俺掃除してから家出たよな? まったく想定していなかったその何かに足をとられた俺は簡単にバランスを崩して、そのままつんのめるように倒れ込む。
 フローリングの床に体を打ち付けることを覚悟していたのに、柔らかい何かを押し潰すように倒れたようだった。音はカーペットやら何やらに吸収されたらしい。立ち上がろうとして分厚い布のようなものに足を取られ、再度柔らかい床に逆戻りする。訳が分からず混乱していると、床が動いた。え、この床あったかいし動くんだけど。
 おまけに、息、してる。
 もしかして人間かこれ、とようやく思い至ったとき、その何か――いや、誰か、は、俺の体をそっと支えてくれて、耳元で囁いた。
「――どうした? 眠れないのか……?」
 低く掠れた声を鼓膜が拾った瞬間、指先まで痺れる感覚がする。一瞬息も止まったかもしれない。
 誰か、分かってしまった。小指の先を一ミリ動かすことすらできなくなる。なに、なんなんだこれやばい、っていうか敬語じゃないの初めて聞いた、ん、だけど、あの、待って。
「ま、マリちゃんなんでここにいるの……」
 蚊の鳴くような声になってしまった。なんか似たようなセリフつい一ヶ月前くらいにも言ったよな、とすごい勢いで拍動する心臓にぎゅっと左手を押し付けながら俺は思う。めちゃくちゃ近い。暗くてよかった。なんかもうよく分からないけど、たぶん今まともに顔見られないし顔見せられない。熱い。
 小さく声をかけて数秒経つと、推定マリちゃんは慌てたように上体を起こした。空気の流れでなんとなく分かる。あと、目が暗闇に若干慣れてきて輪郭くらいは認識できるようになった。
「えっ……セツさん? セツさんですか?」
「そ、そうでーす……ごめん、思いっきり潰しちゃった。起こしちゃったよね、ごめんね」
「いや、それは大丈夫ですけど……あの、すみません、最初分からなくて普通に喋っちゃいました。というか少し寝ぼけてました……」
 クリスマスパーティーして泊まらせてもらったんです、とマリちゃんは小声で言った。いつもの五人全員いるんだとか。ってことは暁人も? あいつが? クリスマスに家にいるの?
 ちょっとした衝撃を受けていると、また空気が動いた。どうやら俺が立ち上がるためのスペースを空けてくれたらしい。高い位置から目を凝らすと、なるほど確かに他に三人寝ているみたいだった。暁人は自分の部屋だろうな。あいつ一人だけベッドで寝てんのかよ……。
 俺は深呼吸する。さっきまでまるで運動した後ですみたいに心臓ばくばくいってたのは、どうやら少しは落ち着いた。にしても急になんだったんだろう。受け身も無しに倒れちゃったときは確かに心臓が縮み上がったけど、不整脈? 救心とか、いるのかな……。
「あの、ほんとごめんね。もう大丈夫だから、おやすみ」
「足元気をつけてくださいね。おやすみなさい」
 囁きあってその場から離れる。家に誰もいないと思ってたからDVDでも観る予定してたんだけど、このまま着替えて歯磨いて寝てしまおう。ホテルで風呂入っといてよかった。
 自室に入って荷物を置く。なんだかまだ脈拍が速い気がして落ち着かなかった。
 マリちゃんは、背が伸びたからなのかそれともただ単に寝起きだったからなのか、いつもより少しだけ声が低かったように感じた。本人曰く寝ぼけていたらしいけど、あんな風に話しかけられたのは初めてで、敬語じゃないのが新鮮だった。
 体つきがとてもしっかりしていたのは流石運動部といったところだろうか。思いっきり倒れこんでしまったのにあまり痛そうにするそぶりが無かった。俺ならきっと潰れたカエルみたいになってたはずだ。というか、マリちゃんって力が強いんだな。体を支えてもらったとき、腕が逞しくて驚いた。八歳も歳が離れているから、まだまだ子供だと思っている部分があったけれど、まったくそんなことはない。よく考えたらもう出会ってから半年なのだ。成長するし、もう「男の子」には収まらなくなっているのだろう。
「子供の成長って早いよな……」
 思わず年寄り臭いことを言ってしまった。これは身長を越されるのもそう遠くないかもしれない。ちょっと複雑。
 自分の部屋の扉の隙間から漏れる細い光を頼りにリビングを再び突っ切って、洗面所に行く。歯ブラシを濡らしていると、鏡越しにマリちゃんが入ってくるのが見えた。
「あ、お手洗いお借りしました」
「はは、ご自由に。っていうか本格的に起こしちゃったか……ごめん」
「構わないですよ。明日も休みですし……それに、こうやってお話できて嬉しいので」
 手を洗いながら肩越しに振り返って笑うマリちゃんを見て、ちょっとときめいてしまった。んん? なんか違うか? 癒されたっていうか……じわじわあったかいっていうか……そんな感じ。優しい気持ちになる。
「マリちゃんはかわいいね……」
「え、どうしたんですかいきなり」
「いやー、マリちゃんと喋ってると癒されるなと思って」
 小さい頃よく暁人にしてたみたいに頭を撫でる。マリちゃんは少しだけ恥ずかしそうにして手の水滴をタオルでぬぐった。
「あっ! そうだマリちゃんさっきほんとに大丈夫だった? 怪我とかしてない?」
「大丈夫ですよ、あのとき半分寝てたので痛くもなかったですし……それに、セツさんって身長のわりに軽いじゃないですか」
 なんで知ってるのと言いかけて、なんでも何も初めて会った日におそらく抱えて運んでもらったりしたんだろうと思い至って今度は俺が照れる番だった。俺も暁人も、そんなに筋肉つくタイプじゃないんだよ。
「マリちゃんって力強いんだね。支えてくれたの、ありがとう」
「ふふ、これ遺伝なんですよ。兄さんも姉さんも強くて」
 おれは弓を引くので、右腕の方が左よりちょっと太いんです、と言ってマリちゃんは腕を見せてくれた。確かに左腕よりも筋肉がついているのが分かる。っつーか、俺の腕より一回り……一回り以上? 太いんだけど。すげーな。
 なんだか物珍しくてぺたぺた触ってしまう。「くすぐったいです」とマリちゃんが眉を下げて笑うのでつられて笑ってしまった。
 帰ってきてよかった。まだ色々整理のついていないことはあったけど、こうしてマリちゃんと喋ることができて得した気分だ。あの子にはまた明日にでもお礼の連絡しておこう。
 まるでサプライズでクリスマスプレゼントを貰ったみたいだな、と思う。その発想がいつだったかマリちゃんが俺に、誕生日プレゼントを貰ったと言っていたのと同じだということに気付いた。ちょっぴり恥ずかしく感じたけど、嬉しい気持ちが勝つ。
 もしこのことをマリちゃんに伝えたら、どんな反応をしてくれるだろうか。
 俺は逸る気持ちを抑えつつ、柔らかく笑ってこちらを見てくれるマリちゃんに、「ねえねえマリちゃん……」と内緒話をするように囁いたのだった。

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