羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 お店からの帰り、久々に兄さんと二人で並んで歩いた。とは言っても店から出て大通りに停まっているタクシーに乗り込むまでのほんの十数メートルの間だけだったけれど、それでも嬉しい。
「八代から電話がかかってきたときは驚いたけれど……おまえのお陰で思いがけず楽しかったよ。ありがとう」
「いえ、あの、結局最後までお邪魔してしまってごめんなさい」
 楽しかったんだから謝るのはよしてくれと言われて反省した。うん、本当に楽しそうだったもんな。
 それにしても、じゃあそろそろ解散しようかという段になったときの八代さんのあまりのどんぶり勘定には少し驚いてしまった。高槻さんと、「適当にこんなもんでいいよね」「何をどう計算したらそうなるんだよ、っつーか多い」「いやお前の分とか酒とか色々あんじゃん? んなことより細かいの無かった……お釣りはいいから日曜の夕飯親子丼にして。ふわふわ卵にして」「定食屋に行け!」みたいな会話をしていた。見た目は繊細そうなのに案外色々雑みたいだ。
 兄さんたちは慣れたものなのか親しいからこそなのかやっぱりざっくりと負担額を決めて高槻さんに払っていたけれど、事前に相談せずにこういうことができるのは本当に仲がいいからなのだろう。本当に、三年ぶりとは思えないな。
 最終的に何故かおれの分まで含めて三等分にされそうになって焦ってしまった。八代さんに、「津軽は酒飲まないし、万里くんと二人でオレ一人分くらいだよ」と言われたのだけれど、お酒ってそんなに高いんだろうか? よく分からない。よく分からないなりに、皆さんにお礼を言うことは忘れずできたのでよしとする。
 と、そこまで考えて、おれはふとある事実に気付いた。
「……兄さん、思ったんですが姉さんってまだ未成年では……」
「いや、まあ、……うん、そうだな」
 よく考えたら姉さんはおれとは三歳差なのだから当たり前だ。まだ十九になったばかりのはずである。
 兄さんはばつが悪そうに目をそらして、「でも、おれを庇ってくれたときのことだからあまり強く言えなかった」と呟く。
 どうやら、正月の宴席で兄さんがお酒を勧められて断り切れずにいたのを姉さんが助けたらしい。コップを横から奪い取って一気飲み。……危ないけれど、まあ、あのひとのやりそうなことだ。
「確かにいけないことだけれど……助けてもらった手前、どうにも。『キリスト教は未成年でも葡萄酒を飲むから広義では日本酒もオッケーなはず』とか適当なことを言っていた気がする」
「うううん……?」
 姉さんはいつも首から十字架をさげている。考え事をしているときはよくそれを弄っているのだ。特別敬虔というわけでもないし、ファッション宗教だよ、なんて本気なんだか何なんだかよく分からないことを言っていた。でも姉さんは日曜に教会へ出かけることが多いし、もしかすると神様を信じているのかもしれない。いや、だからと言って未成年飲酒は正当化されないだろうけど。姉さんは弟のおれから見ても自由すぎるし行動が突飛だ。
「高校のときに消毒用のアルコールの匂いで倒れたことがあるから、八代たちはおれが酒を飲めないのを知っているんだ。別におまえにだけ隠していたわけではないよ」
 別にそんな、仲間はずれにされたとは思っていないのだけれど……おれはまだ中学生だったのでお酒の席には同席できないし。それよりも、家以外での兄さんが見られたことの方が重要だ。部活の話も聞けてよかった。兄さんの高校生活が大変なだけのものでなくてよかった。
「兄さん」
「うん? どうした」
「ありがとう」
 僅かに首を傾げる兄さん。おれの脈絡の無い言葉にも呆れたりしないで続きを待ってくれる。「高校生になって、おれ、ずっと楽しいから。ありがとう」待ってもらったのに抽象的なことしか言えないけれど、伝わっただろうか。まだ兄さんに敬語を使わず接していた頃を思い出しながら喋る。タクシーに乗り込む直前、兄さんは目を細めて笑うと小さく囁いた。
「……そう言ってもらえると、兄冥利に尽きるというものだよ。おまえたちのために何かができる自分であれてよかったと思う」
 やっぱり兄さんはおれの知る誰よりもすごいひとだ。
 おれはとても嬉しくなる。おれの家は他よりも面倒ごとが多くてたまにげんなりすることもあるけれど、そういうのも気にならなくなってくる。家族に恵まれているというのはそれだけでこんなにも心強い。
 高校に入学して本当に色々なことが変わったと思う。周りの環境もだけれど、きっとおれ自身も少しずつ変わっているのだろう。折り合いのつけ方や力の抜き方が分かってきたというか。夜遊びは、予定外だったけれど。
 タクシーの振動と、一定の間隔で後ろに流れていく街灯の光が眠気を誘う。帰って風呂に入ったりしていたら日付は変わってしまうくらいの時間だ。
 今日のことを姉さんに話したらどんな顔をするだろう。また羨ましがられてしまうかな。そんな風に考えながら、おれはどんどん後ろに流れていく景色をぼんやりと目で追った。
 とても穏やかな、夜だった。

prev / back / next


- ナノ -