羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 誰もいないと思ったのだが、扉からの死角に先客がいた。カウンターに一人で座ってグラスを傾けているのは、柔らかそうなウェーブのかかった黒髪の男のひとだ。年の頃は二十歳を過ぎたくらいだろう。女性的な顔立ちで、ぱっちりとした猫のような瞳は綺麗な二重をしている。
 おれも一人なので、テーブル席を使うわけにはいかないよな……とカウンター席のどこに座ろうか迷っていると、ふとその男のひとが顔を上げる。
 目が、合った。
「……うわっ!? え、津軽じゃん! ちっちゃい津軽がいる!」
 おれは確かに津軽だけれど、まだ成長期なのだから「ちっちゃい」は勘弁してほしい。言い知れぬ悲しみと、混乱を味わう。このひと、どこかで会っただろうか。いや待て、「ちっちゃい津軽」ってそれは、つまり。
 綺麗な男のひとはぱっと席を立って大股でこちらに向かってくる。長身痩躯で華奢だ。見た目に反して、意外なくらいに低いちょっと掠れた声だった。
「こんばんは、いきなりごめんね。オレ、八代っていいます」
「やつしろさん……? あ、おれ、津軽万里と申します」
「そ、数字の八に代理人の代で、八代。ふふっ、万里くんか。きみのご家族に、オレの友達がいるかもしれない。オレと同い年くらいの人いない? お兄さんとか」
「え、ああ……従兄が一人、おりますが」
「おっ、ビンゴだー。そっかそっかあいつこんな歳の離れた従弟いたんだ。高校生くらいでしょ? 一人っ子だって聞いてたからびっくりしたよ。従弟ねー」
 目を細めて笑った男のひと――八代さんは、厨房に続く扉に向かって「高槻! ちょっと来て今すぐ! 早く来て!」と声をあげる。頭の中でするすると全てが繋がっていく感覚がした。そうか、もしかしてこの間高槻さんが何か言いたげにしてたのって。
「……んだようるせえ、あんまり大声出すなっつの……あー、お前。また会ったな。いらっしゃいませ」
 扉からひょこりと姿を現した高槻さんは、おれを見て僅かに意外そうな表情をした。その様子に、「なにお前初対面じゃないの? 早く言ってよ!」と八代さんが抗議している。
「うるせえっつってんだろばか。っつーかなんで言わなきゃなんねえんだよ、言ったらお前騒ぐだろ。久々に会おうとかなんとか言って」
「え、今まさにその話しようとしてたのに。いいじゃん、久々に会おうよ。奥も呼べばいいし」
「はあ!? 絶対嫌だ」
「この店を同窓会の会場にするから、お前が嫌がろうと会うことにはなると思うけど」
「テメェ同窓会だっつってんのに俺に料理作らせるつもりか!」
「高槻の作ってくれた料理と酒で楽しみたいなぁー。きっと美味いんだろうなぁー」
「……お前にならいくらでも作ってやるけど」
「え、何その唐突な愛情表現は。自惚れていい?」
「いい」
「マジかよ。あ、酒追加ね」
「お前本当に殴るからな、いい加減にしろ」
 置いてけぼりの会話が目の前でどんどん進んでいるが、ここまで大っぴらに話をされれば流石におれでも分かる。このひとたち、兄さんの同級生だ。
 というか、高槻さんの印象が初回と違いすぎて混乱する。前に会ったときは確かもっと寡黙で切れ味の鋭そうな雰囲気を持っていたように記憶しているのだけれど、こんなに喋るひとだったのか。でも、こっちの方が断然楽しそうだ。
「とりあえず津軽に電話してみよっかな」
「は!?」
「お前ね、もう少し男友達とも仲良くしとけよ。そりゃ妬み嫉みが鬱陶しいのは見てて分かるけど、津軽はそんな奴じゃないぜ」
「そりゃあいつは別に俺に嫉妬する要素ねえし。元々『持ってる』奴だろあれは。……いやそういう問題じゃねえよ、あいつ怖いからあんま近寄りたくねえ」
「うわー、よりによって怖いってお前、津軽はそういうのから一番遠い場所にいるでしょ。オレ、あいつが怒ったとこ未だに見たことないのに」
 八代さんはさらりとそう言って携帯を取り出す。それにしても、兄さんってお友達の前でも怒ったりしないんだ。おれたちの前だから怒らないわけではなくて、常にそうなんだ。
 高槻さんは、「だからそういうとこが怖いんだよ……」と小声でごちている。八代さんは電話帳を検索し終え、おれたち以外に客もいないからか電話をスピーカーフォンにした。三コール目で、聞きなれた声がする。
『――八代?』
「おっ。久しぶりー! 嬉しい偶然に巡り合ったからお前にもおすそ分けしようと思って! あ、因みに今携帯スピーカーフォンにしてる」
『うん……? どうしたんだ、何かいいことでもあったのか? 高槻と飲んでいるとか』
「半分当たり。ふっふっふ、きっと驚くよお前」
 八代さんは本当に楽しそうにそう言うとおれに向かって手招きしてくる。……喋れってこと、かな? 傍まで行くと、八代さんはにこにこしながら兄さんに言った。
「なあ、同窓会しようぜ。お前の従弟の子に偶然会ってさー、懐かしくなっちゃったから」
『え?』
「兄さん、ええと、こんばんは……?」
 おれの声が聞こえたのだろう。『万里、おまえ、どこにいるんだ』と呆れたような声が返ってくる。
「高槻さんのお店に、いるんですが」
 遅くなるとは連絡していたけれど具体的な行先は伝えていなかったのでどんな風に言われるか少しだけ緊張したけれど、兄さんは僅かに間を置いて『……今から行くから万里はそこで待っていなさい』とだけ言った。それを聞いた八代さんが慌てたように電話口に向かって喋る。
「えっちょっストップ! 同窓会っつっても別に今からって意味じゃないよ? や、今からでも嬉しいけどー……なんなら万里くんはオレが送っていくし。突然連絡しちゃってごめんね」
『構わないよ。締切、終わったばかりだしなあ。奥にも声をかけてみるけれど、高槻はそれで大丈夫か?』
 高槻さんがこの場にいるというのを信じて疑わないといった風な兄さんの口ぶりに、高槻さんは苦々しい顔で「…………あと一時間でラストオーダーだからそれまでに来い」と返事をする。
『おまえは相変わらず優しいね。ふふ、久々に会いたいと思っていたところだよ』
「俺は別に会いたくなかった……」
 そんな高槻さんの言葉を最後に通話は一方的に終了した。どうやら兄さんが電話を切ったらしい。
「どうしよ高槻、津軽来てくれるらしいよ。やったね」
「お前ほんとばかじゃねえの……突然すぎるだろ……」
 きっとおれがいたからというのも兄さんが来る理由の一端なのだろうと思うと色々申し訳ない気もしたが、兄さんのご友人とこうして接するのは初めてなので純粋に興味が湧いた。兄さんって、お友達の前でも喋り方が少し硬い。

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