羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 おれのくちびるをここにくっつけたら、どんな顔をするだろう。
 ふとそんなよこしまな考えが浮かんで、同時にとても驚いた。だって、明らかに同性に対して思うことではなかったから。けれど、まゆみちゃんの周囲にいる奴らへの優越感とかまゆみちゃん自身に対する独占欲のようなものとか、おれのこの感情がすべて綺麗に説明してくれるような気がしてならない。
 もしかしてなんだけど。ルームシェアを始めて三年近く経ってから気付いたんだけど。ひょっとするとおれは友達以上の意味で目の前の彼がすきだったのかもしれない。よりにもよって女子からかなりの人気を博している彼のことが。どれだけ高望みというか面食いなんだおれは。
 いや、実のところ彼の外見はおれにとってそこまで重要でもないのだ。綺麗だなとは思うけれど、必須条件ではない。
 まゆみちゃんは、おれの作った料理のために手を合わせてくれるひとだったから。
 尽くされ上手なのだ、きっと。おれの趣味が料理だということを加味しても毎日食事を作ることが苦でないのは、まゆみちゃんの喜びようが分かりやすいからである。
「まゆみちゃん」
「ん?」
「桃のさ、コンポートつくってあるから後で食べてよ」
 おれの言葉に瞳をきらきらさせて、「ありがとう」っていかにも嬉しそうな声音で頷いて、ここまで喜ばれるとこちらとしてはもっと美味しいものを作りたくなる。いつか、おれの料理以外では物足りなくなればいい。そんなあくどいことをおれが考えているなんて、まゆみちゃんは夢にも思わないだろう。
 昔のひとは頭がいい。胃袋を掴むって、効果絶大だ。
「……あんま見られてると食いにくいんだけど」
「あ、ごめんごめん」
「お前さっきから全然食ってない。具合悪い?」
「あー……あのさあ、あの、うーん」
 言いよどむと、途中でやめるなよ、なんて不満げな口調。
 小さなちゃぶ台は、おれがちょっと腰を浮かせればすぐ反対側まで届いてしまう距離だ。腕を伸ばして肩を掴む。
「――――敦くん、おれね、きみのこと特別な感じにすきみたいなんだけど……ちゅーしていい?」
 するっと口から出ていた言葉。あー、おれって行動早すぎじゃない? つい五分前くらいに気付いたばっかりなんだけどこの気持ち。言った瞬間、これ気まずくなっちゃったらルームシェアあと一年どうしよう、なんて今更すぎることに思い至った。
 気持ちとしては、もうどうにでもなれって感じ。
 なんとなく下の名前で呼んでしまったけれど嫌じゃなかったかなぁ。ぼんやりとした思考は、かしゃん、という高く軽い音で遮られる。まゆみちゃんが、箸を落っことした音だった。
 掴んだ肩から視線を上げると、ちょっと意外なくらいに真っ赤な顔をしたまゆみちゃんが視界に入る。あれ、ちょっと待って、想定していたパターンのどれにも当てはまらない。「な、な、なに、なにいって」必死で何か言おうとしているみたいだけれど、言葉が見つからなかったのかまゆみちゃんは助けを求めるように視線を彷徨わせてくちびるを噛んだ。
 あのさ、ほんとにちゅーしちゃうからね。そんな顔するのはずるいでしょ。
 身長も体重もそっちが上だろうから嫌なら抵抗してくれ、なんてとんでもない責任放棄をかまして、凄まじく行儀が悪いけどちゃぶ台の上に片膝をついて、おれはまゆみちゃんのくちびるを舐めた。びくっ、と肩が跳ねる。下唇を軽く甘噛みして啄むように吸う。実はこんなまともにキスしたのって初めてなんだけど、全然レモンの味とかしない、おれのいちばん得意な料理の味がした。
「う、わ。うわあ……ごめん、ほんとにしちゃった。すきです」
「……っ、と、りあえず、降りれば」
「だよねぇ。行儀悪くてごめんね」
 落とした、と焦ったように箸を拾う指先が震えているのを指摘しようか迷ってやめる。これ以上追いつめても仕方ない。
「食事中断させちゃった。どうしよう、あっためなおす?」
「お、お前、なんでそんな平気な顔してんの」
「え? 別に平気ってわけじゃないけど……でもほら、おれが取り乱すのはなんか違うなって思うし。物事引っ掻き回したなりに覚悟はしないと」
「……お前やっぱ変……っつーか、いつから」
「いつだろう。あ、自覚したのは十分前くらいだけど」
「じ、十分」
 十分……と口の中で繰り返して黙ってしまったまゆみちゃん。かと思えばさっきも見たじとりとした表情で、「……俺は最低でも十ヶ月は前からだけど」と言われる。
 ん? 十ヶ月? 何が?
 心の中だけでの言葉のつもりが口に出していたらしい。「何がって、察せよ話の流れで。馬鹿かよ」と嫌そうな声を出されてしまった。
 いや、分かるよ。あまりにもおれに都合よすぎる話だったから現実を疑っただけ。
「もっとこう……もっと、言うならちゃんとしたかったのに」
「真面目だなぁ。えーと、じゃあ、これからも毎日おれのつくった料理食べてほしいな」
「俺、作るの面倒な料理ばっか好きだけどいいわけ」
「自覚あったんだ。いいよ。すきなひとのためならいくらでも」
 その代わりもう一回ちゅーしていい? と言って、答えが返ってくる前にくちびるをくっつけた。「いつまでも飯食い終わんねえだろ」と照れ隠しのように言うまゆみちゃんがなんだか新鮮だった。
「くそ……一年近く悩んだ俺はなんだったんだよ。お前なんでそんな十分程度で突っ走れるの」
「いや、気付いたら言ってたみたいな……おれ悩むの苦手なんだよね。でもたぶんもうちょっとしたら反動でめちゃくちゃ恥ずかしくなってくると思う」
「あーもう分かった、なんか疲れた……っつーかせめて桃食い終わるまで待って」
「なんで? 嫌だった?」
「い、嫌じゃねえけど……俺とのキスが和風だし醤油味だってお前の頭にインプットされるのはすげーやだ」
「なるほど。じゃあ明日はレモンのデザート作ろうかな」
「そこまでしろとは言ってねえ」
「あはは。とりあえず食事の続きしようよ。あっためなおすし……あと、まゆみちゃんが悩んでた十ヶ月くらいのことおれに教えて。知りたいから」
 おれって勿体ないことしてたなあ。どれだけの感情を見逃してたんだろう。まゆみちゃんは今まさに「言いたくない」って顔をしているけれど、こればっかりは譲れない。
 湯気が若干失われつつあった手羽先と大根の煮物をレンジに入れて、五百ワットで二十秒。息を吹き返した煮物の皿をちゃぶ台に運ぶと、妙に真剣な顔をしたまゆみちゃんと目が合った。
 どきりとする。
「――俺も、毎日お前のつくった飯食いたい」
「それ、おれにとっては一番嬉しいプロポーズかも」
 えーと、おれからだと毎日まゆみちゃんの掃除してくれたお風呂に入りたいなぁとかになるんだろうか。
 まゆみちゃんが落っことした箸を洗って手渡す。恥ずかしそうにお礼を言ってくるまゆみちゃん。いいなあ、と思う。おれの求めているひとがおれを求めてくれている。奇跡的だなあ、と思う。
 はたしてまゆみちゃんはおれのために悩んでくれていたらしい十ヶ月についてきちんと話をしてくれるのだろうか、なんてそれを楽しみに、明日のデザートはレモンゼリーにしようとおれは心に誓う。
 早く桃食べ終わってほしいな、と、再びそのくちびるに触れる可能性におれはそわそわするばかりだった。

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