羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 真弓敦という人は、おそらく食事をするときは胸の前で手を合わせることを自然と躾けられた人間なのだろう。
 それは彼の母親の教育の賜物であったかもしれないし、彼自身の生来の気質によるものであったかもしれない。髪を脱色してもピアスホールをあけても、幼少の頃より体に染みついた習慣や、価値観の芯のようなものはきっと彼の中にそのまま残っていた。
「まゆみちゃん、夕飯できたよ」
「ん……さんきゅ」
 今行く、と立ち上がったすらりとした長身と遠目からでも整っていることが分かる造作は、同性の目から見ても素直にすごいと思える。大学ではいつも女子が周りにいて――そうだ、確か時々授業が被る同級生の女子が、「顔がよくって目が合ったら微笑んでくるときたらそりゃ落ちるのも致し方なし」なんて彼について熱弁していたのを聞いたことがある。色素の薄い髪の毛と、控えめに主張するピアス。親しげに笑いかけてきてくれるのに、一定以上は踏み込ませてくれない掴みどころの無い感じがまた燃えるのだと続けて言っていただろうか。
 なんだかおれの知っている彼とはイメージがかけ離れていて内心ほくそ笑んでしまう。これは、優越感というやつだ。
 おれの知っている彼は――まゆみちゃんは、家にいるときはかなり静かだ。言葉を選ぶタイプだし、人目を惹く顔立ちに似合わず掃除と整理整頓が趣味。大学の友達にはきっと間違っても言ってないだろうけど、掃除機をかけているときの楽しそうな横顔なんてちょっと幼い感じがして見ていると得した気分になれる。
 そして何より、おれの作った料理を「うまいよ」と言って食べてくれる。食べる前にはきちんと手を合わせてくれる。最初に見たときは意外でしかなかった。けれどすぐに嬉しい気持ちが驚きを上回った。
「……なににやにやしてんだ?」
「んー、まゆみちゃんと初めて一緒に食卓を囲んだときのこと思い出してた」
「はあ……? 思い出すほど記憶に残ることしたか?」
「手を合わせてくれたのが嬉しかったんだよ。別に、形式的なものだって言われちゃうとそれまでだけど……でもやっぱり嬉しいよ」
 渋い顔をされてしまった。まゆみちゃんが自身の「癖」について語ってくれたのはルームシェアをして一年ほどが経ったときだ。そう、まゆみちゃんは食事の前に手を合わせるのを「癖」だと表現した。
「別に形式とかそんなんじゃねえし……悪かったな、らしくなくて」
「悪いなんて言ってないよ。いいなって思ったし、今だって思ってる」
 友人と食事を共にした折にその「癖」を揶揄されたことがあるのだ――と、まゆみちゃんはそのとき複雑そうな面持ちで言っていた。「何真面目ぶってんの、似合わないよ」と、思春期特有の気恥ずかしさを含んだごく軽い口調が中学生だった彼には深く刺さったらしく、それ以来、外ではその「癖」が出ないように食事をするのが常となっていったのだとか。
 だから、初めておれと食事をしたときにその「癖」が出てしまったのは、そこが他人の前とは言えどまゆみちゃんの部屋でもあり、テリトリー内だと認識していたからだろう。家にいると素が出る。
 曰く、「飯作ってくれた奴が目の前にいたから無意識で……」らしい。
 まゆみちゃんをからかった奴らは勿体ないなあと思う。まゆみちゃんがおれの前でならどれだけ嬉しそうに料理を食べてくれるのか、教えてやりたいくらいだ。それこそ勿体ないから誰にも言う気は無いけれど。
「なあ、早く食おうぜ。冷めるし」
「そうだね。お酒飲む?」
「や、今日はいい」
 だよね。今日の夕飯まゆみちゃんの好物だし。
 まゆみちゃんは甘いものが好き。お酒は飲むけれど、それがメインというよりは食事のお供という位置づけ。美味しいお酒よりも美味しいデザートがあった方が喜ぶタイプ。お菓子よりは果物が好き。特に桃。料理は薄味が好みで、味噌汁よりお吸い物が――潮汁が好き。大学生活の半分以上傍で見ていれば分かる。
 というか率直に言ってまゆみちゃんは作るのが面倒だったり難しかったりする料理が好きだ。奥さんになる人は大変だろうなと思う。
 箸を並べてコップとお茶も用意して、今日もまたきっちり手を合わせて彼は言った。
「いただきます」
 おれもそれに倣う。自分の作ったものに自分で手を合わせるのはなんだか面白い気もするけれど、食材にも感謝しているのだと考えると必要なことだと思える。
「うまい?」
「ん。うまいよ」
 静かに頷くまゆみちゃんを見ておれはこっそり満足するのだ。おれは料理をするのが好きで、誰かのために何かをできているという実感を得ることで安心する。そういうふうに生きてきた。人と親しくするのは得意だ。きっとまゆみちゃんはおれのことを「できた人間」みたいに思っているけれど、食事のときに自然に手を合わせることのできるまゆみちゃんの方がよっぽど素敵だよなあと思う。
 じろじろ見つめてしまったのが居心地悪かったようで、困惑気味の表情で「なに」と言われる。
「いや、好きだなあと思って」
「は、なにが」
「まゆみちゃんがおれの作った料理食べてくれてるの見るのが」
「……なに言ってんだお前」
 あ、照れた。
 外にいるときはこのくちびるが慣れたふうに女子への言葉を紡ぐのかと思うととても愉快な気持ちだった。きっと今みたいに目を逸らしたりしないし、口ごもったりしないのだ。恥ずかしそうにさまよう視線に優越感を覚えるのはやめた方がいいと理性では分かっているのに、どうにも難しかった。
 はやく、外でもおれのことを思い出すようになればいいのになあと思う。
 例えば飲み会のときとか、昼飯をコンビニで済ませたときとか。思う存分おれの作ったものと比べてくれていい。そんじょそこらのものには負けない自信がある。
「俺、は、お前の作った料理、すきだけど」
「ほんと? やったー」
「……お前が料理作ってるとこ見るのも、すき」
「なに、今日は嬉しいこと言ってくれる日なの? ありがとう。おれもまゆみちゃんが掃除機かけながら鼻歌歌ってんの見るのすきだよ」
 なんで知ってるんだみたいな顔しないでほしい。そりゃ知ってるでしょ、一緒に住んでるんだから。
 いよいよ恥ずかしくなってしまったのか、まゆみちゃんは箸で手羽先をほぐすことに専念している。まゆみちゃんは美味しいご飯が食べられて、おれはそれを見て満足する。なかなかいい関係だと思う。おれは大根を落とさないように慎重に挟んで、そっと口に運んだ。うん、うまい。
 今日の夕飯の出来のよさに内心得意になっていると、じとりとした視線を向けられて思わず首を傾げる。「どうかした?」尋ねると、まゆみちゃんは「……べつに」と言って拗ねたようにまた目を逸らした。もくもくと咀嚼を続けるまゆみちゃんの、手羽先の油で照るくちびるをつい注視してしまう。

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