羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「――こんばんは」
 あまり見続けるのも失礼かと思い静かに声をかけてみる。セツさんはおれの声にぱっと反応し、驚いたように「……えっ誰!? え、マリちゃん? なんで?」と目をしばたたかせた。
「その反応は予想外でした……」
「だって一瞬誰か分かんなかったよ。っつーかほんとなんで今? 来るなら絶対昼だと思ってた」
「一緒についてきてくれた友人が、『夜の方が楽しい』と教えてくれたので」
 ぱち、ぱち、とセツさんの瞳がまばたきで隠れて、不思議と嬉しそうな表情で「マリちゃんにも夜遊び知ってるような友達いんだね」と言われる。この髪もその友人にやってもらったのだと、半ば暁人の功績を自慢するような気持ちで伝えてみた。
「やっぱり。自分ではしそうにないからびっくりした」
「まあ、そういうことには疎いので……あ、そうだ、お礼が遅くなってすみません。お菓子、いただきました。とても美味しかったです」
「うわー、よかった。あれでいいか不安だったんだよね実は」
 安心したように笑うセツさんは、普段は和菓子ってあんまり縁が無いから新鮮だった、とグラスを並べながら言う。
 本当はもう少し腰を据えてお礼を伝えたかったのだが、ひっきりなしに注文が入るようで素人目に見ても忙しそうというか、遠目で見ただけでは分からなかった疲れの色が見えてしまう。よく考えたら今日は日中から通しで働いているのだろうし、疲れていて当たり前だ。なんとも間の悪いときに来てしまったのかもしれない。そう思って申し訳なくなる。
 けれどセツさんは逆に自分が申し訳なさそうな顔をして、「ごめん、俺他のことやりながら喋ったりすんの苦手で……! ほんっとごめん、こんな忙しくなると思ってなくて」なんてしきりに謝ってくる。お仕事中に邪魔をしてしまったこちらが悪いのだから、そんなに気に病まないでほしい。
「あの、気にしないでください。お仕事、邪魔してしまってすみません」
「邪魔ではないけど! あーもうこういうときに限って鬼のように混む……サイアク……」
 セツさんは何かに少しだけ悩んだようだった。一瞬口をつぐんで目を伏せると、ぱっと顔をあげたかと思えば「ねえ、やっぱ今日は忙しすぎてロクに相手できないだろうから、せめて何か作らせて。ごちそうするし」なんて眉を下げながら言ってくる。
「ええと、お酒……ですよね?」
「いや、マリちゃん酒とか飲まないでしょ。ノンアルコールで作るよ。苦手な果物とかある?」
「特には。あの、ありがとうございます」
「何が? もとはと言えば最初に助けてもらったのは俺なんだし、このくらいさせてよ。迷惑かけっぱなしは嫌なんだって」
「いえ、それにしたってたくさん頂いてしまったので……逆に負担になってしまったんじゃないかと」
 ここで、セツさんは何故だか本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。「待っててね」と短く告げて、その手はよどみなく動く。おれにはセツさんが持つ器具の名前もそのきちんとした用途も分からなかったけれど、一連の動作はとかく洗練されていて、じっと静かに見つめたくなるような、まるでひとつのショーを見ているかのような気持ちになる。
 口の広い、そのまま下にすとんと落ちるフォルムのグラスの中は、たちまち淡い黄緑色で満たされた。コップの底の部分、三割程度は白く、二層に分かれているのがとても綺麗だ。
「お待たせしました」
 おどけたような口調で差し出されたグラスを受け取ったおれは慌てて「ありがとうございます」と声を張る。そろそろ暁人も戻ってきている頃だろうか、と頭の片隅で考え、セツさんに頭を下げた。
「とても綺麗ですね、嬉しいです」
「ありがと。俺、これくらいしかできねえから……喜んでもらえたなら俺も嬉しい」
 ほんとはもっとちゃんとおもてなしするつもりでいたんだよ? と傍から見てもしょんぼりしていたので思わず口元が綻んでしまった。
「……何笑ってんの」
「ふふ、いえ、すみません。嬉しいなと思って」
「マリちゃんは人の行いを好意的にとりすぎだよね。いつか悪い奴に騙されるよ」
「そうですか? おれの周り、素敵なひとばかりなので問題ないですよ」
 もちろんあなたも含めての話です、なんて当たり前のことは言わないでおく。少なくともおれが望んで会いに行くようなひとたちはみんな、とても素敵なところを持っている。
 立て続けにまたふたつ注文が入ったところで、セツさんの「うわあ……」という表情を横目にいい頃合だろうとその場から離れる挨拶をする。人と会うときは、名残惜しいくらいが丁度いいとはよく言ったものだ。
「俺から誘ったのにごめんね、せめて楽しんでいってもらえると嬉しい……」
「こちらこそ、お忙しいのに飲み物まで作っていただいてしまって。あの、おれこういうところ初めて来ましたけど、思っていたよりずっと落ち着いた雰囲気でした。来てよかったと思います」
「そ? よかった! 酒飲める歳になったらさ、またおいでよ。そのときはいい酒飲ませてあげるから」
 普段ならそんな数年後の約束は社交辞令として受け取るのだが、なんとなく、セツさんは何の含みもなく本気で言ってくれているような気がして嬉しくなる。
 これならお酒を飲める歳になったらと言わず、またこっそり訪れるのもいいかもしれない。いや、それなら今度こそ昼間を選ぶが。今更ながら危ない橋を渡っている。これが姉さんの言っていた、「悪いものに憧れる時期」というやつなのだろうか。
「おれ、また来ます、きっと」
「ん? 気に入った?」
「こういうものに憧れる時期、らしいので」
「はは、駄目って言われるとしたくなるやつだ」
 俺は悪い大人だから、内緒にしといてあげる。そう言って、セツさんは人差し指を口元に当てた。
 おれはそんな仕草を見て、ああ、素敵な言葉選びをするひとだなあとまた嬉しくなる。再び頭を下げて今度こそセツさんと別れた。途中、ふと振り返ったときにばっちり目が合って、セツさんがおかしそうに笑ってくれたものだから、来てよかったなとおれは改めて思ったのだった。

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