羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 翌日、おれは仕事の一段落したらしい兄さんに見送られて昼過ぎに家を出た。
 友達の家に遊びに行ってくる、と言うと、兄さんはまるで自分のことのように嬉しそうにして、「気をつけて行っておいで」と微笑んだ。夜は少し遅くなることを伝えて、兄さんに言伝を頼むのはずるかったかなと思いつつ日差しの下を歩く。
 休みの日は昼前まで寝てるから、と暁人に言われていたので、ちょっとした手土産をゆっくり選んでから目的地へと向かった。学校へ行くのとほぼ同じルートを辿り、駅から三分ほど歩くと目印として教わったコンビニが目に入る。雑誌の陳列棚の前で暁人がひらひらと手を振ったのが、ガラス越しに外から見えた。
 約束していた時間の五分前だ。丁度いい。
「昨日めちゃくちゃ保険かけてたからどんだけ世紀末なカッコしてくるかと思ったのに、かなりマトモじゃん。お前、私服だと印象変わるね」
「う、浮いてないか? 大丈夫かこれ?」
「だいじょーぶだって、ビビリすぎ」
 もっと派手でもよかったのに、と言われて思わず首を横に振ってしまう。元々そんなに色鮮やかな服は持っていないのだ。
 暁人は、私服だと尚更大人びて見えた。特別長身というわけでもないのだが、垢抜けた感じが既に大学生のようにも思える。夏真っ盛りでラフな薄着だというのにけっして手抜きには見えず、Vネックに隠れて控えめにきらりと光るアクセサリーは暁人のイメージ通りだ。
「行こうぜ、万里」
 楽しそうにおれを先導してくれる暁人。おれは慌てて頷き、自分よりはいくらか華奢な目の前の背中を追った。


 暁人の住む家はコンビニからすぐそこだった。なるほど、兄弟二人で生活するにはいささか大きすぎる家なのだろうなと思う。
「今日は兄貴いないんだよね。昼から仕事で」
「ああ……イベントがあるからかな?」
「そうかも。っつーか今更だけど休み初日のイベント日ってすげー混みそう」
 今頃大忙しだろうな、と笑った暁人は、鼻歌を歌いながら玄関の鍵を開けて「いらっしゃいませ」なんて芝居がかった風におどけてみせる。おじゃまします……とおそるおそる入った玄関は、事前に聞いていたイメージとは違いとても綺麗だった。確かにほぼ二人暮らしにしては靴の数が三倍くらい多いように見えたけれど、きちんと揃えて並べてあるので気にならない。そのなかでもひときわ目立つ、ごつごつしたトレッキング用にも見えるブーツに見入っていると、「なにガン見してんの」と笑われた。
「あ、ごめん、じろじろ見て。ええと……強そうな靴だなあ、と思って」
「強そうってなに、お前の言葉選び面白いんだけど!」
 けらけらとひとしきり笑って満足したのか、暁人はさっさと靴を脱いで歩いていってしまう。おれは、一番邪魔にならないのはどこだろう、と迷いながら壁際の隅に靴を揃えて、暁人の後に続く。
 正直、油断していたのだ。玄関が綺麗に片付いていたので、なあんだ暁人は大げさに言っているんだな、なんて思ってしまった。現に、リビングに入ってもまだ綺麗だった。物が多いというのは自己申告の通りだったが、掃除が追いついていないと言うほどでもない。問題は、その先だ。
「俺の部屋はここ。今足の踏み場ほぼ無いんだよねー。適当に蹴って座るスペース作っていいけど、やっぱリビングがいい?」
 思わず目眩がした。暁人が言っていたことは大げさでも何でもなかった。そのくらい物に溢れた部屋だったのだ。
 まず目立つのは大量の服だ。よくもまあこんなに放置できるなといっそ感心してしまう。開け放たれたクローゼットの中にもみっちり洋服が詰まっていて、そのくせベッドの横に厚手のコートが落ちていたりするものだから衣替えの概念が無いのかこの部屋は、と頭が痛くなった。服に、アクセサリー類に、CDや雑誌。ざっと見渡した限り、そんなところだろうか。
「……暁人」
「なに?」
「掃除しようか」
「はー!? やだ! 片付けたら出すのめんどいじゃん」
「面倒とか面倒じゃないとかそういう問題じゃないよ、ほんとうに人間の住むところかよここは。そもそも床は物を置く場所じゃないだろ、おかしいことに気付いてくれ」
 頻繁に使うものを、出すのが面倒になるくらいの場所に片付けることなんてないだろ。
 唯一の救いは、物が多いだけで、片付いていない部屋なだけで、けっして不潔な部屋ではなかったということだろうか。暁人が自慢げに「飲み食いはリビングでしかしねーから!」と言っていたので脱力しそうになったが。
「うぅん……まさかほんとうに掃除をすることになるとは思わなかったな」
「えええ、正気……? これを掃除すんの? ここが嫌ならリビングでいいのに」
「正気だよ。というか、こんな部屋で生活してるおまえが正気じゃないよ。大牙は何も言わないのか?」
「見せるとうるせーから最近はリビングから先に入れてない」
「おまえな……」
「ちょっと待って、言い訳させて。いつもはここまで酷くないんだって。ほら、お前言ってたじゃん? ギター聴きたいとかなんとか。それで、どこしまったかなーって押入れの中身ひっくり返したらこうなった」
 その言葉は嘘ではないのだろうが、それならなおの事おれの発言にも責任の一端がある。おれ自身、部屋の掃除はお手伝いさんがやってくれるので色々言えないけれど、流石に片付けくらいは自分でする。
「じゃあまあ、そんなに掃除が嫌ならおれが掃除している間そこでギター弾いてくれよ」
「なに言ってんの!? 俺の弾き語りを掃除のBGMにするつもりかお前!」
「聴かせてくれるって言ってたじゃないか」
「掃除の片手間に聴くな! 聴くなら俺に集中しろ! 弦の張り直しとチューニングめちゃくちゃ時間かかったんだぞ!」
 暁人の機嫌が降下していくのを察知したおれは、仕方なく奥の手を使うことにした。「この部屋が綺麗になったら、お兄さんきっと帰ってきたときびっくりするぞ。喜ぶだろうなあ。大牙だって似たようなこと言ったんじゃないか?」途端に暁人は渋い顔になって、「言われた、あんまり世話かけさせるなって……」と唇を尖らせる。
「お兄さんは暁人に甘えてもらえるのも嬉しいだろうけど、それはそれとして家事を手伝っても喜んでくれるよ。バランスが大事だからね」
「んー……」
 掃除のダシにしてごめんなさい、と顔も名前も知らない暁人のお兄さんに心の中で謝罪して、暁人がゆっくり頷いたのを、おれは既に一仕事終えたような気持ちで見届けた。

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