羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「そんなわけだから、これ」
「え?」
 差し出された携帯に間の抜けた反応をしてしまう。暁人はじれったそうに、「アドレス。まだ教えてもらってない」とおれの脇腹をつついてきた。
「ごめん、気付かなかった」
「俺が自分から連絡先聞くとかちょー珍しいから自慢していーよ」
「誰に自慢するんだよ……」
「えーと、他校の女とか」
「できるわけないだろ、というかしないよそんなの」
 もしかして拗ねられるかと思ったけれど、予想に反して暁人は満足そうに笑った。「やっと俺に遠慮しなくなってきた?」その言葉に、ああ、やっぱりこいつは優しいしいいやつだな、と改めて嬉しくなる。
「じゃ、また連絡するわ。あ、俺んち物多いからそれは覚悟しといて。兄貴が必死に掃除してるけど追いつかねーのすげー笑えるから」
「笑ってないで手伝ってあげたほうがいいだろ、それ……」
「なに、お前も手伝ってくれんの? 物理的に無理な量だよあれ、まあ殆ど俺が増やしてんだけど。あんまいい子ちゃんすぎること言ってっとマジで手伝わせるかんね」
「部屋の様子によっては検討するよ」
「は? ガチなの? やっぱお前変な奴だよなー」
 掃除なんて楽しくないだろ、と言い切った暁人は、「まあ掃除は冗談にしても、やりたいことあったら言って」と続ける。友達の家で遊んだ経験が無いので何をすればいいのか迷うところだ。そういえば暁人の家はどの辺りにあるのだろうかと思って聞いてみると、おれの家からそう遠くない。電車を乗り継いで三十分ほどの駅で――というか、学校に行くのと最寄り駅が同じだ。そこから徒歩で五分とのことである。つまり暁人も大牙も学校へは徒歩通学なのか、と思うと少し羨ましい。
 おれはここで、あることを思いついてしまった。思いついてしまったというか、気付いてしまったというか。おれはおそるおそる、暁人に尋ねる。
「なあ暁人。おまえ、クラブ……とか、行ったことある?」
「ん? え、部活じゃない方のだよな? あるけどなんで?」
「ええと、もしよければついてきてほしいお店があるんだ。あ、クラブだけど行くのは昼間だし、イベントとかがやってるみたいでそんな変なところではないと思うんだけど」
 暁人の家の最寄り駅から、セツさんが働いているであろうお店の最寄り駅まで、地下鉄で一本だったのだ。何度も住所を調べたけれど結局一人では行けなくて、無理を言ってまでお昼のシフトを聞いたのに……と自分で自分にがっかりしていたところだった。
 偶然、明日はセツさんが昼間もお店にいらっしゃる日で。昼過ぎくらいから行ってセツさんに菓子折りのお礼を言って、夕方くらいにはお暇して暁人の家にお邪魔するというのはどうだろう、なんて自分勝手ながら考えてしまう。
 こういうことは、大牙よりも暁人の方が頼みやすい。そんな風に思ったのは、やはり暁人の見た目や雰囲気に起因するのだろうか。
 暁人は訝しむようにおれのことを上から下まで見て、「やっぱお前ただのいい子ちゃんってワケでもねーよな、ふっしぎー」と至って軽い調子で言う。
「でも、行くなら夜な。そっちのが断然楽しいぜ」
「よ、夜? 夜に行っても大丈夫なのか、ああいうところ」
「やー、そもそもクラブ行こうってしてる奴がなんで昼とか夜とか細かいとこにこだわってんの? だーいじょーぶだって、そんな不安なら俺の知ってる店にする?」
 申し訳ないがそれではまったく意味が無いのだ。首を横に振って、半ばやけっぱちな気分で人生初の夜遊びを決める。電話口で聞かされた母親の、高校生の息子に対するイメージを踏襲してやろうではないか。
「……おまえを信じるよ」
「おっも! 何!? 重いんだけど! なんでそんな切腹前みたいな顔してんの!?」
 とりあえずその店の名前聞かせてみ? と言われたので、何度も名刺を見返してそらで言えるようになった店名を告げる。すると、暁人はいかにも拍子抜けしましたみたいな、気の抜けた声でこう言った。
「は? 俺の知ってる店だわそこ。っつーか、兄貴のいる店だし」


「――暁人のお兄さんって、クラブで働いてらっしゃるんだ」
「いーよあんなのに敬語使わなくても。仕事してなかったら俺よりちゃらんぽらんだぞ」
「自分のこともちゃらんぽらんだって言ってるようなものだろう、それ」
「だって実際そうだし。俺も兄貴も楽しいことが好きっつーか、つまんないことしたくないんだよ。親からの小言はうぜえし、女にちやほやされんのは気持ちいいし、ダチと遊ぶのは楽しいよ。単純なんだって。兄貴は歳がいってる分俺より遊び方派手だぜ、びっくりするくらい」
 おれは、その明け透けとも言える行動原理になるほどと思った。正直だし、明確だ。
「暁人、前に言ってただろ。お兄さんは器用じゃないのに家事をやってるって。それは、お兄さんにとってはつまらないことではないんだ?」
 つい疑問がこぼれてから、少し踏み込みすぎたかなと僅かに後悔する。そんなおれの気まずさを吹き飛ばすくらいの快活な笑顔で、暁人は楽しそうに言った。
「そりゃ、つまんねーし面倒だろ。お前も上にきょうだいいるなら分かるんじゃねーの?」
「? 何が?」
「上の奴らにとってはさー、下のきょうだい可愛がるのって、最高に楽しいことなんだよ」
「……楽しいこと、か」
「そ。だから俺は素直に可愛がられてやってるし甘やかされてやってんの。たまーに口答えして、お前はほんと一人じゃ米も炊けねえなとか言われて、それでいーの」
 でもやっぱり無理してないか心配だから、そういうときはタダ酒たかるふりして様子見に行くんだ。と、なんでもないことのように付け足された暁人のその言葉は、とても心に響いた。
「暁人は……お兄さんのことがとても好きなんだね」
「んー? うん。好きだよ。お前もだろ?」
 何故だか挑むような表情で言われたので、「そうだね。兄さんも姉さんも、かっこよくて憧れるよ」と素直に答えてみた。
「はは。なーんだ、兄貴の店なら気ぃ遣うこともねーわ。適当なカッコで来ても平気だぜ。流石に制服はアレだけど」
「そ、そう? おれ、あまりこういうときの服装に自信が無いんだけど……」
「だっせぇカッコしてきたら笑ってやるから大丈夫だって。なんなら個室とってもらう?」
「うぅ、ありがとう……」
 遊ぶことよりもセツさんにお礼を言いに行くのがメインなので、あまり人目に触れずに済むなら有難い。うーん、結局弱腰逃げ腰なのは変わっていないな。こんな気持ちで夜遊びするような人間はいないだろう、きっと。
 知り合いの誰にも見つかりませんように、と祈って、おれは隣で歩く暁人を置いていかないよう、そっと歩調を緩めた。
 「明日の約束」をするのが、こんなにわくわくするということに驚きながら。

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