羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 いいことがあった。最寄り駅から帰ってくる途中、数十メートル先に停まっていたタクシーから降りてきたのがとても見覚えのある人物だったのだ。いつぞやとは違って自分の足でしっかり歩いているし、どうやら体調は回復したらしい。元気そうでよかったな、と嬉しくなる。ひょんなことから縁が生まれたひとの息災であるのを、確認できるのはいいことだ。
 それにしてもこんな半端なところで降りるだなんてどこに用事なのだろうと思っていると、偶然なのか何なのか、おれと同じ目的地へと向かう角を曲がってゆく。姿が見えなくなって、けれど走って追いかけるのもおかしい気がして少しだけ早足になるに留めた。
 おれが曲がり角を曲がったとき、そのひと――セツさんはちょうどおれの家の門前にさしかかるところだった。随分とのんびり歩いている。かと思えば、ぴたりと立ち止まってしまったのでおれは内心で首を傾げた。おれの家に何か用だろうか。いや、この場合はおれの家というよりも、用事があるのはおれに対してか?
 それにしたって何故インターホンを押さないのだろうと思ったが、そういえば門が保護色になっていて初見ではなかなか見つからないと評判なのだった。おれは近づいて、後ろから突然肩を叩くのと声をかけるのとどちらが嫌がられるだろうかと少しだけ心配しながらその後姿に声をかける。
 案の定驚かせてしまって申し訳なく感じたが仕方ない。セツさんはおれを見るやいなや随分と安心したような顔になって、そんなに怖がるような家でもないのになとおかしかった。
 セツさんと別れ、夕食を済ませ暫くしてから、おれはこっそりと笹原さんを呼んでお茶を淹れてもらうことにした。セツさんのくれた折箱にはどうやら和菓子が入っているようで、おれが独り占めするには勿体無いけれど家の者全員に渡すことができるほどの量ではない。きっとおれのために選んでくれたんだろう――という気持ちも少なからずあったので、あの日手伝ってくれた笹原さんと、あとは兄さん姉さんがいれば一緒に、なんて考えたのだ。
「旦那様に見つからないようにお相伴に預かりますね」と冗談めかして言った笹原さんは、お皿とお茶を用意しに行っている。じゃあおれは姉さんでも呼びに行こうかなと思っていると、ちょうど廊下に出てくる姉さんが見えた。
「姉さん」
「うん? 万里、どうしたんだい」
「お茶菓子を頂いたんだ。姉さんもどうかと思って」
 たまにはそういうのもいいかもねと笑った姉さんは、長い髪を翻して歩む先を変える。淡いグレーの髪は、姉さん曰く「反抗期の名残だよ」だそうなのだが、おれは結構気に入っていた。姉さんは名前を「美影」といって、長い髪に影の差すさまはその名前の通り綺麗だ。
 色々と細かいことで悩みがちなおれと違って、姉さんは性格がきっぱりしているし、堂々としていて恰好いい。姉さんはこの家で一番「不良」なのかもしれないけれど、自分のことを自分で選んでいるところはすごいと思うのだ。
 まあ、姉さんはそんなおれのことを、「悪いものに憧れる時期だよねえ。わたしのようになってはいけないよ」と呆れ顔でたしなめてくるのだけれど。
「なんで部屋から部屋に移動するだけでこんなに時間がかかるんだろうなあ。嫌になっちゃうよ」
「離れに行く? 兄さんもお菓子食べるかなって思ったんだけれど」
「締切前はいつも甘い物を欲しがっているからちょうどいいんじゃないかな」
「あー……」
 笹原さんと合流してから、歩いている間にお湯が冷めてはしまわないかと少しだけ心配だったのだけれど、流石に余計な心配だったようで。障子の前で声を掛けると、少しの間を置いて「入りなさい」と返ってきた。こんな時間に珍しいなと言う兄さんは心なしか嬉しそうに見える。笹原さんが慣れた手つきで文机に茶菓子と湯呑みを並べるのを、おれたちは何を言うでもなくのんびり眺めていた。

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