羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


「孝成さーん、朝だよー、遅刻するよー?」
 朝。緩やかな振動と、まったく急がせる気のなさそうな声音。
 俺は心地よいまどろみから意識をどうにか浮上させ、俺のことを揺らしていたそいつを見た。
「おはよう、潤」
 名前を呼べばそいつは、目を細め、口元を綻ばせて笑う。
「おはよ、孝成さん」


 あれから数か月が経ち、潤の戸籍は無事に作られる運びとなった。父親も母親も所在が分からないということで通常の手続きよりもかなり余計に時間がかかってしまったが、とにかく。
 こいつはもう、名無しでもなんでもなく、安来潤だ。
「今日は帰り早いんだっけ?」
「おう。明日休みだから早めに帰してもらえると思う」
「そっかぁ。じゃあ一緒に夕飯食べられるね」
 ふわりと笑い、キッチンへと軽やかな足取りで向かった潤。やがて、トントントンと軽快な包丁の音が聞こえてくる。大方、味噌汁に散らすネギでも刻んでいるのだろう。
 戸籍が取得できたとき、潤は出来上がった戸籍謄本と住民票の写しを交互に眺めてそれはそれはご満悦だった。いつまでも眺めているものだから早く寝ろと声をかけると、枕の下にそれらを敷いて寝ようとしたので流石に止めた。
 病院にちゃんと行ける、と無邪気にはしゃぐ様子は見ていて俺までうかれて飛び上がりたくなるくらいで、行けるかどうかまだ分からない海外旅行の計画なんて立ててしまったほどだ。
 最初は恥ずかしそうにしていたけれど、ようやく「安来潤」という名前にも慣れてきたらしい。
 潤はまず、俺がいない日中にコンビニでバイトを始めた。愛想も人あたりもいい奴なので、接客は向いているだろう。理不尽な客もいるにはいるらしいが、それすらも楽しいと言っていた。もう少し慣れたらちゃんとフルタイムで働けるところ探したい、なんて瞳を輝かせていたくらいだ。潤がフルタイムで働くようになったらもちろん家事は折半だよなあ、と少しだけ不安に思っているのは内緒である。
 そしてあいつは、免許を取った。ペーパー試験に多少手間取ったものの実技は元々勘がよかったのか一発で合格したとのことだ。ある日家に帰ったら、にこにこと上機嫌の潤から突然顔写真入りのカードを見せられて本当に驚いた。「びっくりさせたくて内緒で通ったの、ごめんなさい」と悪戯っぽい笑顔で言われて全部許した。いや、そもそも許すとか許さないとか、俺に許可をとる必要もないのだが。
 そのときに潤が言った言葉はこうだ。「あのねぇ、海外はまだ無理だけど、おれ、孝成さんといろんなとこ行きたいんだぁ……前一緒に海行ったときは孝成さんにだけ運転させちゃったけど、次からは交代で運転できるよ」。本当に幸せそうに言っていた。今までずっと諦めてきたことができるようになって、あいつにとっての世界はどこまでも広がったのだろう。
 最近はもっぱら、漢字の書き取りの勉強をしている。どうやら俺に手紙を書いてくれようとしているらしいが、まあ、気長に待とうと思う。どんな可愛いことを書いてくれるのか非常に楽しみで仕方ない。
 そう、気長に待てるのだ。俺と潤の時間はいくらでもあるのだから。
「夕飯何がいいとかある?」
「あー……昨日魚だったから肉がいいな」
「牛豚鶏」
「……豚で」
「りょうかーい」
 朝飯を食べながら夕飯について考えるというのにも慣れてきた。潤のいる生活が、当たり前の日常としてお互いに受け入れられつつある。今日も部屋は綺麗で、洗濯物はきっちりと畳まれ、飯は美味い。
 今まで使っていたものよりも少し大きめの机を買った。お揃いの椅子を買った。クッションを、新しい靴を、アイロンを、潤と生活するために必要なものをたくさん買った。
 けれど、一番初めに買った揃いの茶碗と箸も潤は未だに大切に使ってくれている。そういうところも、ああ、好きだなあと思う。
 自分のものを増やしたがらなかった潤も、俺の隣という居場所ができたことで大切なものが増えるのに抵抗がなくなったらしい。今の部屋では手狭なので、近々もう少し広い部屋にでも引っ越しをしようかと相談中だ。
 俺は朝飯を食べ終わると身支度を整える。潤は、その間に食器を洗う。そして、どんな日でも必ず、玄関まで俺を見送りにきてくれる。
「じゃあ、いってきます」
「ん……いってらっしゃい。気を付けてね」
 返事の代わりに軽く頬にキスをする。そうすれば潤はちょっと恥ずかしそうにはにかんで、ゆるゆると手を振るのだ。
 これは俺が仕事から帰ったときも同じ。「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってきて、潤は俺を見て嬉しそうに笑って、俺は潤にキスをする。
 そんな幸せがここにはある。今だけではなく、この先もずっと。
 俺は、こいつと生きていく。

prev / back / next


- ナノ -