羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「なあ」
「んー? なあに?」
「……これは別に、お前を悩ませたり困らせたりしたい訳じゃねえから、あんま深刻に考えないで聞いてほしいんだけどよ」
「え、なになに、その言い方が既に深刻そうなんだけど……」
 くったりと浴槽のふちに体を預けていたそいつが姿勢を正したのを見て内心慌てる。違う、そういう反応をさせたかったんじゃなくてだな。
「名字は、俺の使えよ」
「え……」
 さりげなく言ったつもりだったのに、語尾が震えた。くそ、恥ずかしい。
 そいつは俺を見て数秒、小さな声で「いいの?」と呟く。
 いいに決まってるだろ。冗談でこんなこと言わない。お前にしか、こんなこと言わない。そう返したのに、そいつは眉を下げて泣きだしそうな表情で続ける。
「ほ、ほんとに……ほんとにいいの?」
「しつこい奴だなお前、なんなら養子扱いでもいいんだぜ。俺がいいっつってんだ。それじゃ納得できねえか?」
「そういうわけじゃないけど、でも」
「あーもう! お前は俺の名字になるのは不満かよ」
 俺の言葉にそいつはふるふると慌てたように首を振って、ほろりと言葉をひとつ、こぼした。
「うれしい……」
 まるで家族ができたみたい、と。目に涙をいっぱい溜めて、それでもこれ以上ないってくらい幸せそうに笑うそいつに、俺は裸なのも忘れて思わずその体を抱き寄せる。
 初めて会ったときよりはましになったがそれでもまだそいつは細くて、これからこいつにたくさん食わせるためにもっと仕事を頑張らないとな、なんて思う。もしかして戸籍ができたらこいつも働きたがるだろうか。病院にも何の後ろめたい思いもなくちゃんと行ける。パスポートも発行できるようになるから海外旅行だって。今までこいつが当たり前にできなかったことを、当たり前にしていこう。
「にしても……家族ができたみたい、か」
「うん。嫌だった……?」
「嫌じゃねえよ。でも」
 俺は、結婚するみてえだなって思ったんだけど。耳元でそう囁く。そいつは俺のことを見てしばらくきょとんとしていたけれど、やがて顔をじわじわと赤く染めて俯いた。
「なあ。そんな反応されると、脈ありだって思っちまうぜ」
「お……思っても、いいよ」
「マジで? あのな、嫌なら嫌って言っていいんだぞ。無理強いしたいわけじゃねえからな」
 そいつは唇をとがらせて、頭をぐりぐりと俺の肩に押し付けてきた。おいおいどうした。可愛いな。
「い、嫌じゃないもん……おれ、孝成さんのせんぎょーしゅふになるよ。住所があるからちゃんと働けるし。食費くらいなら自分で稼げるようになるよね?」
「お前さては専業主夫って漢字で書けねえだろ……」
 明らかにひらがな発音だった。そして専業主夫が何かもいまいち分かっていなさそうだ。食費を自分で稼いでくる奴は専業主夫じゃねえよ。
 そうだ、そういえばこいつは学校に行ったことがないのだったか。喋ることは問題なくできているというのは分かるが、読み書きはどうなのだろう。まあ、俺が教えるのも悪くない。
 こいつはまだまだ、経験していないことが沢山あるのだ。
 これからそれをひとつひとつ、一緒にやっていければいいなと思う。
「下の名前はどうする?」
「え?」
「いや、名字だけじゃ駄目だろ。自分につけたい名前とかねえの?」
 そいつは暫し長考した。結局俺はこれまで名前を呼ばずに「お前」で押し通してきたから呼び慣れるのに時間がかかるかもしれないが、さてこいつはどんな名前をつけたがるのか。
 黙って待っていると、そいつは恥ずかしそうに俺から一度視線を逸らす。そして、右手で左手の小指の爪を弄びながら落ち着かない様子で言った。
「おれ、孝成さんに名前つけてほしい……」
 小指の爪から髪の毛に弄る対象を変えて、俺のことを窺うように見上げてくるそいつ。一緒に暮らし始めた頃にも同じようなことを言われたが、意味合いはまったく違うというのは流石に分かる。
「いいのか? 俺が考えても」
 こいつが過去にしてきたような、別れのたびにリセットされる名前とは違う。一生付き合うものだし、滅多なことがなければ戸籍に載った氏名は変更できない。そんな大切なものを、俺なんかが決めていいのだろうか。
 そいつは俺を見てふわふわした笑顔を浮かべると、これまたふわふわした口調で言う。
「だって、この先おれの名前をいちばん呼んでくれるのは孝成さんでしょ? なら、孝成さんの好きな名前がいい。絶対大切にするよ」
 熱っぽい瞳で、まるで夢見がちな子供のような表情で。
 そんな風に語って、そいつはぎゅっと俺に抱き着いてくる。
「孝成さんが考えてくれた名前なら、おれ、好きになれると思うんだ」
 好きな奴にここまで言われて、断ることのできる奴がいるだろうか。少なくとも俺にはできない。俺にそういうセンスはあまりなさそうだけれど、ここは全力でこいつの名前を考える必要がありそうだ。
 こいつの名前を今後、一番多く呼ぶのは俺。
 こいつが当たり前のようにそう思っていてくれることが嬉しかった。それは、こいつがこれからも俺の隣にいてくれるということの何よりの証明だから。
 俺は考える。今後、俺が一番多く呼ぶようになるであろう名前を。こいつに好きになってもらえるようなぴったりの名前を。
 ふと目が合って、未だに薄く涙の膜が張ってきらきらと光を反射する瞳が、これまで見たどんなものよりも綺麗だと思った。
「――潤。潤がいい。どうだ?」
「じゅん……どういう漢字で書くの?」
「じゅん、は潤いとか、潤沢とか。豊かで、瑞々しくてつやつやしてるみたいな」
 俺の説明を興味深げに頷きながら聞いていたそいつは、「どうしてその名前がいいって思ったの?」と重ねて聞いてくる。
 若干の気恥ずかしさも覚えたが、ここできちんと話すことで喜んでくれるならと俺は正直に言うことにした。
「まあ、殆ど直感なんだけどよ……」
 こいつと出会ったのは雨の降る日だった。
 こいつに好きだと伝えたのも、雨の日だ。
 そして今しがた、こいつの涙で潤む瞳は綺麗だなと強く思ったし、その瞳で俺を見ていてほしいと思った。
 それに何より。
「お前と一緒に暮らすようになってから毎日楽しくなった。こんなに長く、親以外で誰かの手料理食い続けたのも初めてだ。だから、なんつーか……まあ、お前は俺の人生の潤いってことで……」
 人生とは随分大きく出たなと自分で思う。けれど、これが決して大げさではないのだ。こいつがいると、俺は一人のときよりもずっとずっと楽しい。こいつが来てから、俺は電気もついていない真っ暗な家に帰ってくるのを寂しがっていたのだということに気が付いた。
 流石に引かれただろうか。気持ち悪かったかも。目の前のそいつは無言のままだ。
 かなりの不安を覚えながらそいつの言葉を待っていると、やがて噛み締めるように「潤い、だから潤、かぁ……」とこぼす。
「――おれ、今日から安来潤になります。よろしくね」
 一生大切にする。ありがとう。
 ふにゃっと花の綻ぶような笑顔になって、溜まった涙がまなじりから溢れそうになっていた。ああ、俺もお前のこと、一生大切にしたいと思ってるよ。
「……潤って呼んでいいか?」
「うん。呼んで。これからもいっぱい呼んでね」
「おう。誰よりも沢山呼んでやるから」
 おれ、今までこんなに幸せだったことってないよ、とそいつが――潤が、とうとう涙をこぼして笑った。
 なあ潤。俺だって、今までこんなに誰かのことを愛しく思ったことはなかったよ。
 そう言い返す代わりに俺は潤の額にキスをする。耳元で「……ありがと、だいすき」と聞こえて、風呂のせいだけじゃなくのぼせそうだと、幸せを噛み締めた。

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