羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 帰る道すがら、そいつは今までで一番口数多く喋った。「まだ話していないことがいっぱいある」という言葉の通り、本当にたくさんのことを話してくれた。
 そもそもの原因は、父親の家庭内暴力にあったらしい。それは、俺が無戸籍について調べていたときに原因のトップとして何度も紹介されていたもので、けれど「平凡な理由でしょ」と苦笑いするそいつに頷くことはできなかった。母親が、暴力を振るう父親から妊娠中に逃げ出し、見つかることを恐れて出生届を出せずそのまま……というのが事の流れだったらしい。
「常に引越し引越しで落ち着かなくてさー。ほんとはあれ、シェルターみたいなやつ? ああいうのに保護してもらうべきだったんだろうけど」
 DV被害者用の保護施設があることを知ったのは今のような生活を始めてからだったとそいつは言った。学校に行ったことがないのは、戸籍よりもその引越しばかりの生活がネックになっていたのだろう。
 何歳くらいからこんな生活をしているのかと聞いたら「覚えてないや」と返ってきて、特に隠している風でもなく、本当に覚えていないらしい。そもそも自分の誕生日を知らない、とそいつは続けた。
 何歳からこの生活をしているかは覚えていないようだったが、母親が「夕飯の食材を買ってくるから待っててね」と出かけたのを最後に帰ってこなかったというのはよく覚えている、とのことで。不慮の事故か、事件に巻き込まれたか、はたまた自分は捨てられたのか、結局分からないままだとそいつは笑った。
「分からない方がいいかもしれないなって思う。今更知ってもどうしようもないことだし。おれも、一週間しか待たなかったしね」
「一週間……」
「そ。冷蔵庫の食材が尽きて体からどんどん栄養足りなくなってくのが分かって、流石にやばいなーって思ってさ。家の有り金全部かき集めてそのまま電車に乗って、ふらふらしてた」
 遠くに行きたかったんだよねと言ってそいつは一旦言葉を切る。
「……不思議と帰る気しなかったんだ。母親も、原因がどうあれもう戻ってこないだろって思ってた。名前も呼んでくれないっつーか……つけてくれなかったひとだから」
「そう……だったのか」
「うん。だからかな、実は今も、留守番ってあんまりすきじゃないんだ」
 おいていかれる気がする、と呟いたそいつの言葉にはっとした。
 こいつが風邪をひいたときに見せた、あの切実そうな表情の意味がようやく分かった。あのときは、一体どういうことなのか理解が及ばなかったがそういうことか。
 置いていかれるのが怖いから、それより先に自分が出て行く。あまりにも不器用な生き方だと思った。けれど、それしか知らなかったのだろう。そうするより他になかったのだろう。
「でも、これからは孝成さんがいるから大丈夫だね」
 視線の先には俺たちの暮らす家があった。そいつは玄関の鍵が閉まっていなかったことに一瞬何か言いたげな顔をしたものの、最終的には柔らかい笑みを浮かべる。そして。
「……ただいま」
 そいつの言葉に、思わず俺は振り返ってそいつの顔をまじまじと見てしまう。
「お前……この家に来てから初めて言ったな、それ」
「えへへ。言うの何年ぶりなんだろ……やっぱり、帰るところがあるって嬉しいね」
「ここはもう、とっくにお前の家でもあったんだからな。これからはちゃんとそのつもりでいろよ」
「……じゃあ、孝成さん、おれに『おかえり』って言ってくれるの?」
「なんなら今すぐにでも言ってやるよ」
 そいつは本当に嬉しそうに顔を綻ばせて、もう一度「ただいま、孝成さん」と言った。
 俺はそれに「おかえり」と返す。はにかんだ顔がとても可愛かったものだから、感極まって思わずそいつを抱きしめてしまったけれど。今ならきっと、許されると思いたい。

prev / back / next


- ナノ -