羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 そこで俺は、今の今まで存在を忘れていた茶封筒について思い出す。強く掴んでいたせいで僅かにひしゃげていたが、幸い濡れてはいないようだ。言うならこのタイミングしかない、と俺は一旦唇を舐めて湿らせてから声をあげる。
「お前が……本当に、俺のこと忘れたくないって思ってくれてるんだったら、お前にしてほしいことがあるんだ」
 抱きしめていた体をそっと離して、向き合う。泣いたせいか白目の部分が若干赤くなっていたものの、鳶色の瞳は相変わらず綺麗だった。こちらをじっと見て、俺の言葉の続きを待っているそいつに言う。
「今からでも遅くないから、戸籍、作らないか?」
「戸籍、を、つくる?」
「悪い。本当は、もうずっと前から思ってたんだ。でも、こういうこと言ったらお前、出て行くんじゃねえかって、それが怖くて……」
 本当は今だって少し怖いけれど、これは、もしこいつがこの先俺と一緒に暮らしてくれると言うのなら必要なことだ。
「お前が……免許も取れて部屋を借りるのだって簡単にできて、もちろん結婚だって何にも邪魔されずに自由にできるようになって、それでも俺といたいって思ってくれたら――そのときは、ずっと傍にいてほしい」
 こいつが俺と一緒にいてくれることに、「好きだから」以外の理由をつけてほしくなかった。これは、俺の我儘だ。こいつにとって今更なことばかりかもしれない。きちんと、他の大勢がそうしているように当たり前に当たり前の年頃に学校に通ったり、就職したり、本当ならしたかったのかもしれない。けれど、決して遅くはないのだと思っていてほしい。それしか選択肢が無いからそうするのではなくて、きちんとこいつの意思で俺と一緒にいることを選んでほしい。
 俺は、傍らにあった茶封筒をそいつの胸元に差し出す。
「裁判所行ったり何だり、ちょっと手間はかかるけど、この中の書類の通りにすれば戸籍が取れるようになってる。他にも、戸籍が無い間でもできることとか、色々……あるんだ。お前がやりたかったこと全部、これからできるようにしたいんだよ」
 そいつは無言のまま茶封筒を手に取って、そっと抱きしめるようにした。「孝成さんって、やっぱり、お人好しって言われるでしょ……?」と眉を下げる。
「好きな奴のために必死になってるんだよ。分かれよな」
「……ふふ、茶化してごめんね。こんなにおれのこと考えてくれてたんだなって、嬉しくて」
 久しぶりに見たような気がするその柔らかい笑顔に、思わずこちらも笑みが浮かんだ。泣き顔よりも断然こっちがいい。
「おれさぁ、自分で言っちゃうけど正直面倒くさい奴だと思うよ」
「んなこと知ってる。とっくに知ってるよ」
「基本的にマイナス思考だし、頭悪いし、家事くらいしか取り柄無いし」
「お前がそう思ってても、俺はそんなお前に毎日助けられてるって思うぞ」
「鬱陶しいこと言うかもよ。これからも一緒にご飯食べたいとか、休みの日も構ってほしいとか」
「もっと我儘言っていいくらいだ」
 こいつは確かに、すぐうじうじするし自分を蔑ろにするし面倒臭いことも言うしそのくせ人のことにばかり気を配って心配ばかりかけさせる奴だ。でも俺は、そういう面倒臭いところも込みでこいつを好きになった。そんな生き方ばかり選ばざるを得なかったこいつの心を解かすことができたらと思った。
 必死に言葉を重ねると、言い訳も尽きたのかそいつは眉を下げて笑う。
「帰ろっか」
「え」
 そいつの唐突な台詞に驚いて、次いで「帰る」という言葉のチョイスに期待が募る。俺の表情の変化が相当面白いものだったのか、そいつはおかしそうにくすくす笑って、明るい声をあげた。
「孝成さんも結構濡れてる。走ってきてくれたんだよね? 風邪ひいちゃうといけないから帰って風呂入ろう。掃除はしてあるからすぐお湯溜められるよ」
「そうだな。じゃあお前が先入れよ」
「なんで?」
「お前がバカみてえに雨ざらしになってたからだよ!」
「おれは、一緒に入ってもいいかなぁって思ってるんだけど」
「は!? いや、それは、その」
 何も言葉が出てこなくて、「孝成さん慌てすぎ!」と笑われた。もしかすると泣いてすっきりしたのかもしれない。笑顔でいてくれるなら、俺としては嬉しい限りだ。
「おれ、まだ孝成さんに話してないこといっぱいあるんだ」
 自然な動きで手を握られて、反射的に握り返すとそいつは悪戯っぽい顔で「……聞いてくれる?」と囁く。
「前も言っただろ。お前が話してくれることなら、俺は聞きたい」
「そう言ってくれると思ったよ」
 手を引かれるままに立ち上がって、放り出されていた傘を拾う。プッシュ式の傘を片手で開くと、そいつは俺の左半身にぴったりと身を寄せてきた。
「やっぱびしょ濡れは気持ち悪いね」
「当たり前だろ……ったく、あんま心配かけさせんなよ」
「今度こそ大丈夫だから、安心して」
「信じるからな」
「うん。信じてくれて、ありがとう」
 その「ありがとう」はこれまで何度も聞いてきた言葉だったけれど、今の俺には、とても特別な響きで耳に届いた。

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