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「ミョウジ」
移動教室、わたしが教科書を抱えて廊下を歩いていると、わたしを呼び止める声がした。その声で誰かは分かっていたけれど、振り向いて相手を確かめる。
「あら、あなたがわたしを呼ぶなんて珍しいわね」
プラチナブロンドの髪を一つにまとめ、冷たい顔をした男。アブラクサスだ。
「彼がお呼びだ」
アブラクサスの言う”彼”だなんて一人しかいない。彼はもうすでに、スリザリンの中を巣食う存在となっている。
「いやよ。わたし、今日は気分じゃないの。そう伝えておいて」
アブラクサスは不快さを隠そうともしない。狡猾な男だけれど、わたしのことは彼のペットとしか見ていない。
「馬鹿なことを言っていないで早く来い」
「いや。わたし、数占いの授業があるから、また後でね」
わたしがアブラクサスに背を向けると、後ろからつかつかと歩み寄る音が聞こえ、そうしてわたしの手首が掴まれた。容赦ない力で。
「痛いわ、アブラクサス」
わたしがそう抗議すると、わたしが一応女だということを思い出したのかその手を緩めた。けれど離しはしない。
「売女のくせに生意気な」
誰がアブラクサスにそんなことを吹き込んだのだろうか、それとも彼の”主人”が”ペット”に情けをくれてやることが鼻持ちならないのか?
アブラクサスはそう吐き捨てると、わたしの手を掴んだまま歩き出そうとした。
「アブラクサス、今日も陰気臭い顔をしているな」
わたしの後ろから、そんな声がかかった。
「……ブラック」
アブラクサスはその声の主を憎々しげに呼ぶと、ばつが悪そうにわたしの手を離した。
「おや、利口だな」
オリオンは後ろからわたしを抱き寄せると、小馬鹿にするような口調でそう言う。スリザリンの上下関係ははっきりしている、表面上はブラックの名を冠する人間が頂点に立つ。
そうしてアブラクサスはしばらくそこでわたしとオリオンを見比べていたけれど、鼻を鳴らしてその場から立ち去った。
「僕のお姫様が困っていたようだから」
オリオンはわたしを覗き込んでそうからかうように言った。
「女王様からお姫様になった心境について語るべきかしら。このまま教室までエスコートしてくださる?」
わたしが手を差し出すと、オリオンは「よろこんで」とその手を取った。
「君が売女なら、僕が買おう」
「あら、聞いていたの?」
オリオンが不意にそう言うので、わたしは眉をあげてそう問うた。
「アブラクサスの声はよく聞こえる。奴は遠吠えが得意だ」
「あら、蛇だと思っていたけれど犬だったのね」
オリオンはわたしを教室まで送ると、仰々しくお辞儀をして去っていった。数占いの授業を取っているわけではないらしい。
数占いの授業は退屈ではない、けれど心踊るようなものでもない。わたしが頬杖をつきながら聞いていると、いつの間にか終了を知らせる鐘がなった。
わたしが荷物をまとめているあいだに他の生徒たちは素早く出ていったようで、気づいた時には教室には誰もいなかった。
「ナマエ」
その声の持ち主以外は。
「あら、トム。数占いはとってないでしょう」
わたしがそう言うと、トムは馬鹿にしたように吐息だけで笑った。
「アブラクサスを呼びに行かせたはずだが」
「ええ、彼が来たわ。でも、彼のエスコートは気障ったらしくて苦手なの」
わたしが荷物を抱えて胸に抱きしめると、トムはわたしに歩み寄ってそれを奪ってしまった。仕方がないので彼の隣に並ぶと、教室を出るよう促される。
「ブラックの邪魔が入ったと、そうアブラクサスは言っていた」
「邪魔だなんて。アブラクサスはわたしを殺しにでも来たの?――そんなのって趣味が悪いわ。あなたが殺してくれるんじゃなかったの?」
わたしがそう言うと、トムは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「僕以外に君を理解できる人間はいない。ブラックに期待しても無駄なことだ」
トムが時折言うそんな言葉に、胸が跳ねてしまうのが悔しくて、わたしは「そうね」とだけ返した。彼の独占欲も、そんな言葉も、わたしにとっては恋心を募らせる理由にしかならなかった。
「トム!」
遠くで手を振りながら彼を呼ぶ、トムの恋人の姿が見える。トムはそれに手を振り返すと、わたしの荷物をわたしに渡して彼女の方へと歩き始めた。
いっそ、わたしも彼の本性を知らなければ、気づかなければよかったのかもしれない。あの少女が無知なことをわたしは笑ったけれど、よっぽどあちらの方が幸せなのだ、きっと。
わたしは教科書を抱え直し、彼に追いつかないように歩き始めた。
あしたの底をかき混ぜる