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こういう日は真っ赤なルージュをつけるに限る、とわたしは思っている。
好奇の目に晒されるのだ、おどおどとしていてはいけない。
わたしは入念にリップラインをなぞり、鏡でチェックした。何も間違いはない。
同室の少女たちはわたしの首筋に残るいくつもの赤い跡に好奇心をくすぐられているようだけれど直接聞きには来ない。わたしが彼女たちに話しかけることはあれど、彼女たちからわたしに何かを言うことはないのだ。スリザリン内の結束は固い。けれど、上下関係はどの寮よりもはっきりしている。
女王と揶揄する人間もいるけれど、あながち間違いでもないのかもしれない。馬鹿げたことだけれど、面倒ごとから離れているのにはちょうどいい。
わたしはローブに身を通すと、髪でその跡を隠した。けれど見えてしまうだろう、きっと。そしてトムは満足げに笑うのだ。
「ナマエ」
朝食をとっていると、オリオンがわたしの後ろに立っていた。わたしの首筋を見つめ、呆けたように立ち尽くしている。
「ご覧の通り、隣は空いてるわよ」
わたしがそう言っても、彼はわたしから目をそらさなかった。
「それは」
オリオンがつぶやくように言った。わたしはリンゴをかじりながら、それを見返した。
「それって?オリオン」
わたしは口ずさむようにしてそう言った。その時、わたしの向かい側にトムが腰を下ろした。隣に恋人の姿はない。彼女はまだ眠っているのかもしれない、トムのベッドで。
彼女の香水の匂いを漂わせたトムは完璧だ。
きっとオリオンは何も言わず、この場を立ち去るだろう。そしてわたしについて、何か彼の友人に話すかもしれない。彼のプライドを満たすまで、口汚く。
しかしオリオンはその予想に反してわたしの隣に座った。そうして、わたしの手を取るとそのまま自分の口元まで引き寄せ、食べかけのリンゴをかじった。
トムはそれをただ見つめていた。
「僕は君の全てを受け入れよう、ナマエ。君は僕にこそふさわしい」
純血の王たる血脈を、彼は示したようだった。わたしは何も言えなくなり、ただオリオンを見つめていた。今まで彼は女好きの遊び人を演じていたらしい。こんな気迫を、今まで彼が見せたことはなかった。
「…わたし、先に失礼するわ」
自分のペースを乱されたのは、トム以外にオリオンが初めてだった。わたしはデザートを食べることなく、広間から立ち去った。
オリオンの黒い、トムとは違う瞳が頭から離れない。廊下を歩きながら、わたしは混乱していた。
「あら、ナマエ!」
突然わたしの名前を呼んだのは、柔らかな赤毛の少女だった。彼女からはトムの匂いがする。
「朝寝坊しちゃって、朝ごはんを食べ損ねそうだわ。まだ食事は並んでいた?」
そう朗らかに笑う彼女からは、性の匂いはしない。ただ添い寝をしただけなのかもしれないけれど、男女が一晩過ごしたというのにそれを感じさせない彼女の清潔さに、わたしはめまいがしそうだった。無意識にわたしは襟を立てて首筋に残る鬱血を隠していた。
「ナマエ、顔色が悪いわ。どこか体調でも悪いの?」
心配そうにわたしを覗き込む少女に、わたしは小さく手を振った。
「大丈夫よ、今日はちょっと頭痛がするだけなの。医務室に行くわ」
「そう、あまり無理せずにね。あとでお見舞いに行ってもいいかしら?」
冗談じゃない、と思いつつ「いいえ、きっと薬をもらってすぐ帰るから」と答え、わたしは彼女と別れた。足早に立ち去りたかった。
わたしは初めて、すべてやめてしまいたいと思った。それはオリオンに全てを乱されたからなのか、それとも彼女に不意に会ったからなのかはわからなかった。けれど、トムとの関係も、それからわたしのこの想いも、全て忘れてしまいたいと思った。
「おや。朝食を食べ損ねたのかね?」
その人は突然現れた。ダンブルドアだ。長身の体を折るようにしてわたしを覗き込み、そう言った。わたしは彼の鼻が、少なくとも二度は折れていることを知った。
「いいえ、先生。食べ終わったところです」
わたしはそう答えてさっさと立ち去りたかったけれど、教授を前にしてはそうもいかず、軽く俯いて手持ち無沙汰にそこに立っていた。
「実は知っていたのじゃ。君が広間から出て行くのを見て、ここにきたのだから」
わたしはその言葉にはっと顔を上げた。きっと怪訝そうな表情を、わたしはしている。
「昔私が君に言ったことを覚えているかね?『トムは愛を知らぬ』と。そして、こうも言った。『君はどうなのだ』と」
「ええ、覚えてます」
わたしは問いには答えず、ただ『彼を愛しているとでも?』そう言ったのだ。
「私は、君を誤解していたようじゃな」
わたしは今度こそ、意識して胡乱な目をダンブルドアに向けた。
「君は愛を知っておる。いや、知ったと言っていいじゃろう」
「何が言いたいんですか」
ダンブルドアは小さく微笑んだ。
「君の苦しみは、愛ゆえかもしれぬ。しかし、愛を消してしまおうとは、決して思うでないぞ。君を君らしくこの世に留めておくのが、愛なのだから」
「先生、あなたは知らないからそう言うのです」
わたしは思わずそう言った。わたしがそんな、素直な言葉を吐くとは思っていなかったようで、ダンブルドアは一瞬ほう、と感心したような顔を見せた。
「君が年相応の表情を見せるなど、思っていなかった。君が苦しんでいるのを知っているというのに、嬉しささえある」
わたしはため息をついた。どこまでタヌキなんだ。
「では、どうぞ、わたしが一人で哀れに苦しむのを楽しんでください。わたし自身でさえ滑稽に思えますから」
わたしは今度こそ、ダンブルドアの隣をすり抜けて立ち去ろうとした。そうでなければ生徒という立場としてあるまじき言葉を、ダンブルドアにぶつけてしまいそうだったからだ。
「ナマエ、私は君を見たとき、トムと同じだと思っていた。しかし今は違う。もし君が助けを必要とするなら、私は君の味方だということを忘れないでいておくれ」
ダンブルドアがわたしの背中にかけたその言葉を、わたしは耳に入れまいと努めた。
これ以上わたしを混乱させないで、そう叫びだしたくなるから。
唇を赤く染めているのが、ただ滑稽だった。
呑みこむ不実