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静寂の戻った部屋で、わたしはただひとり、倒れ伏していた。傷を押さえる手は、すでに真っ赤に染まっている。いっそ、死の呪文の方が穏やかにいけたわね、と考える。そうすればねむっているかのような姿で、何もかも手放せたのに。けれど、それではいけなかった。彼は意図せず、わたしの望みを叶えたのだ。あとは、運命がどのような姿をしているか、確かめるだけ――。

「ああ、」と脱力したようにその場に膝をついた彼を立ち去らせたのはわたしだった。あのまま彼が放心し続けていたら、やってきたトムは彼を歯牙にもかけずに殺してしまうに違いなかった。「行きなさい」わたしは言った。「あなたが帰らなかったら、あなたの息子は?」彼はのろのろと顔を上げる。「あなたがいなくても子どもは育つ――けれど、自ら投げ出すような真似をしないで」囁くような声だったけれど、彼には届いたらしい。何度も振り返りながら、彼はその場を去っていった。それでよかった。彼は二度とこちらへ、帰ってきてはいけないひとだ。

だんだん階下の騒ぎが小さくなってきていた。それは戦いが沈静化してきたしるしなのか、それともただわたしの意識が遠くなっているのか、もうすでに定かではない。わたしはベッドに背を預けるようにしながら、ただひたすら待っていた。何かが終わるのを。

ついに、何も音がしなくなった。この世界で唯一最後まで残ったのは、ひゅー、ひゅー、というわたしの喉からもれる呼吸音だけだ。扉の外で、とん、と革靴が音を立てる。誰かが扉の前の廊下に、姿現ししたらしい。悠然と歩いていた足音は、わたしのいる寝室の扉が開きっぱなしになっていることに気づいたのか、だんだんとその間隔を狭めていた。

「ナマエ」

その声に、それがトムだと気づく。運命はわたしに味方したようだった。また、アブラクサスを迎えによこすつもりかと思っていたわ、と返したかったけれど、言葉にならなずに終わった。トムの明晰な頭でも、この場で何が起こったのか理解するのに時間を要したらしい。血にまみれたわたしの姿をどこか呆然とした様子で見ていた彼は、ゆっくりとわたしに近づいてくる。

「何をしてる?」

咎めるような声だった。まるで、できの悪い生徒を叱責するように。 月明かりを背にした彼の顔には影が落ちていた。彼の鼻梁が、陰影によってよりうつくしさを増すことを、改めて思い知る。

彼はわたしの隣にしゃがみこむと、傷跡を抑えるわたしの手をどかした。その手が震えているように見えたのは、錯覚だろうか?彼が戸惑うことなど、この世にはないというのに。

「誰にやられた」

おそろしい声で、トムは言った。きっと、その声だけで人を殺せるに違いない、そんな気さえするほどに。総毛立たせるような怒気を感じる。まるで手負いの猫のようだ。

「もう助からないわ」

彼が続けて何かを言う前に、わたしはそう呟いた。すでに声を発するのも、絶え絶えになっていた。わたしが手を伸ばすと、血に染まっているのも構わずに、彼は反射的にその手を握る。そうして彼に抱かれるようにして体を起こされた。「大丈夫だ」トムは言った。「私なら、君を助けることができる」

杖を取り出したトムは、“Vulnera Sanentur” と傷をなぞりながら唱え始める。けれど、失った血が戻ることはなかった。彼の呪文は、正しく効果を発揮しているはずだというのに。だんだん険しくなるトムの頬に、そっと手を添える。

「……なぜ傷が癒えない?」

唸るような声で言った彼の問いに、わたしはその答えを知っていたけれど、ただ首を振って彼を見つめた。彼の瞳は、すべての夜を集めたような色をしている。

「あなたの腕の中で、死ねるのね」

「馬鹿なことを言うな」

わたしは『僕は君を殺すだろう』と不敵に笑ったいつかの彼を思い出して、笑みをこぼした。わたしを抱く彼には、ただ吐息を漏らしただけに見えたかもしれない。いつまでも、あなたはわたしを殺してはくれなかった。わたしがただそれだけを望んでいると知りながら、唯一の望みさえも、叶えてはくれないひどい男だった。

「キスをして、トム」――そう囁くと、トムは押し殺すような表情のまま、ゆっくりと近づいてくる。彼のくちびるが燃えるように熱く感じたのは、わたしのそれが温度を失いかけているからだろうか。すべて吸い込んで、奪ってほしい。けれど彼が与えたのは、触れるだけの口づけだった。

もう時間が来たのよ、トム。かなしいことに。わたしたち、ここまでだった。これは、先延ばしにし続けた結末を迎えただけに過ぎない。彼の頬に添えた手で、ゆっくりとそのかたちをなぞった。何度もそれをたしかめて、永遠のものにする。

意識が遠くなる。何もかも手放さなければならない。この世に残せるものは何もなかった。そのように、生きてきたから。「だめだ、」そうトムが呟く声が、聴こえた気がする。わたしはだんだん力の抜けていく手を最後までトムに伸ばしながら、吐息となって消えゆく声で囁いた。

「わたしは、あなたを――あなただけを、あ」

解き明かすには眠りが足りない



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