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今夜はトムがいない。

わたしは夕食がわりの無花果を、剥いては口に入れるのを繰り返していた。ここは祖父の書斎だ。相変わらず、天井まで伸びた本棚にはぎっしりと本の背表紙が並んでいた。純血の家柄にしか流通しないような、少しばかり過激なマグル排斥論や、違法に限りなく近い魔法薬の製造方法など、ミョウジ家も他の純血の家と同じように、骨の髄までスリザリンであることを、この部屋にいると思い知らされた。

わたしはおもむろに立ち上がると、黒い背表紙の並ぶ棚の一つの前に立った。探すまでもなく、その中でひとつだけ、他の本とは比べ物にならない魔力が込められているのは一目瞭然だ。彼に贈ったばかりの時と比べて、ずいぶん手に馴染むようになった黒革を手にすると、途端にそれは自分を手にした魔法使いの存在に気付き、その魔力を見極めようとまるでうごめいているように感じる。Tom Marvolo Riddleと刻印されたそれを開くと、やはり何も書かれてはいない。けれど、彼の言う通り、 “記憶” が何かしらの形で込められているのだろう。わたしはそれを机に置くと、その前に座った。トムが込めたという記憶が、どのようなかたちをとっているのか、そしてどうすれば呼び起こせるのか、わたしには全く見当がついていなかった。少なくとも、憂いの(ふるい)とは違うようだ。わたしは注意深く、背表紙を眺めたり、ページをめくったりしたけれど、彼が込めた呪文は簡単に正体を現しはしなかった。いくつか知っている呪文を唱えたけれど、小さく痙攣するように震えただけで、何かを話し出すこともない。わたしは途方にくれて、手帳の横に体を伏せた。

「どうしても見せないつもり?」

腕に頭を預けながら、わたしはそう呟く。ずいぶん時間をかけてこの手帳を暴こうとした割に、わたしが知りたかったのは彼が込めた “記憶” の中にどれだけわたしがいるか、という些細なことだった。トムが知ったら、くだらないと切り捨てるような類の。もう諦めようと、わたしが体を起こした時だった。

「あっ」

わたしは思わずそう声を上げた。当然だ、そこにいたのは、スリザリンのローブを身につけた、若かりし頃のトム・リドルその人だったからだ。どこか輪郭がぼやけているように見える彼は、一目で彼自身ではないことがわかる。そこでわたしは、どのようにトムが記憶を込めたのかを悟ったのだった。

「何を見るつもりだったんだ?ナマエ」

ずいぶん苦労していたようだが、と嗤う彼は、彼そのものだった。しかしどこか幼い――彼は学生時代から大人びていたけれど、今のトムを知っているので――のは、学生時代にこれを作ったからなのだろうか。当時のトムの感性をそのままに、反映しているように見えた。

「あなたは――トムの記憶なのね。今のトムとは、切り離されているの?」

「互いが生きているかどうか程度は分かるさ。今の僕――ヴォルデモートと呼ぶのがふさわしいな――の存在は、このように実体化しなくても常に感じてはいる」

わたしは思わずトムに触れようとして、けれどその手が彼の体をすり抜けてしまったのではっと手を引いた。すり抜けたのが、ちょうど彼の心臓に当たる場所だったので、柄にもなく動揺したのだった。トムはまた少し小馬鹿にしたように笑うと、「まだ君に触れられるほど魔力が完全ではない」と言ってわたしの頬に手を沿わせた。すこし、空気が震えたような感触を感じる。

「今の僕は君の魔力によってこのように元の姿をとっていられるが、もし君がその手帳に羽ペンで何かを書いてみるということを思いついていたならば、しばらくは僕も君と交換日記の真似事をしようと思っていた」

書いてごらん、とトムが言うのでわたしが羽ペンをとって、何となしに今日の日付を書いてみると、途端にその文字が消え失せ、その代わりに “他に書くことがあるだろう” という文字が浮かび上がってくる。わたしがトムの顔を見上げると、彼はどこか得意げな顔をした。

「僕が君に触れられるようになる頃には、君は死んでしまうだろう。そうやって実体化しない方法が一番いいんだ」

わたしはその言葉に、思わず魅力を感じてしまった。けれど、トムにとって、それは本意ではないだろう。この日記に込められた記憶は、彼が万一窮地に陥った時の、保険なのだから。もし、わたしの魔力で日記の彼が完全になったら、トムがどうなるのかもわからない。確証のないことを下手にするわけにもいかないし、そもそも日記の彼自身がそれをわかっているのだろう。

「……そうね。でも、あなたと会えて嬉しいわ。抱きしめられないのが残念だけれど」

「ずいぶんと素直な女になったんだな」

トムはどこか拍子抜けしたようにそう言ったけれど、頬を両手で包むように――実際は、触れられていないけれど――挟んで、わたしの顔をじっくりと眺めた。そして、「年を重ねた君も、悪くない」というので、わたしは思わず吹き出してしまう。

「あなたって、そんなにユーモアのあるひとだった?」

わたしがそう尋ねると、トムは「本気だ」とまじめな顔で言うので、もっと可笑しくなってしまう。あの頃も、あなたそんな風だったのかしら。トムの前だと、いつもずいぶん余裕がなくなってしまうので、彼のふとした仕草や、言葉をこのように楽しむなんて、今までなかったのに。わたしとあなた、ずいぶん遠いところまで来たのね。

わたしはトムに触れたくて、髪を撫でようとした。相変わらず、わたしの手が彼に触れることはない。

彼の頬に触れるために、死んでもいいとすら――わたしは思っていたのだった。

たとえば頼りなくふるえる熱



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