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思えば今日のトムは、普段より一層、気が立っていた。普段から何かと腹を立てている――それが本気のものであれ、戯れの延長であれ――彼だったけれど、目に見える形で自分の機嫌を示しているのは案外珍しいのだった。なぜなら、彼が “うまくいかない” “手に入れられない”ものなど、今のこの世にはないにも等しかったからだ。
「トム」
わたしは彼の背中に声をかけた。ビリ、と部屋の空気が震えるのを感じて、わたしは彼に気づかれないようにため息をこぼす。こんなに彼の機嫌を損ねたのは、一体誰なのだろうか。すでに、誰も帰ってきたことのない場所へと送られているに違いない。
彼は返事をしなかった。ただ考え事をしているように、本棚の前で佇んでいる。
わたしはそんな彼に声をかけても無駄だということは承知しているので、そっと彼の文机に近づいた。そこでふと、見覚えのあるものが置いてあることに気づく。
わたしが思わずそれを手にとると、まるでその様子が見えていたかのようにトムが振り返った。そして、条件反射のようにわたしの手首を掴んで、わたし達はそれ――黒革の日記帳を挟んで、相見えた。
「あら。もしかして、あなたの秘密を書き綴ってくれでもしたの?きっと、捨てられていると思っていたのに」
わたしは降参を表すように、手の力を抜いた。しかし彼はわたしの手を離すことなく、じっとわたしの手の中の日記に視線を注いでいる。
「何も感じないか?」
似た言葉を、前にも聞いた気がする。
「もう、何も知らない少女じゃないのよ。あなたが何をしたのかくらい、知ってるわ」
魔力を搾り取ろうとする禍々しさを、わたしは痛いくらい感じていた。 “あの時”は感じなかったのに、なぜか今は、気を失いそうなほど、その凶暴さを肌で感じる。もしかしたら、わたしはすでに侵食されつつあるのかもしれない。
「君の思い描いた用途のままに、私はこれに “記憶”を込めた」
トムはわたしの手から日記を取り上げて、そっとその表紙を指先で撫でる。
「記憶ですって?」
わたしは思わずそう聞き返したけれど、それに答えが返ってくることはなかった。
「君に預けようと思っていたが、まだ早いだろう。これは君が枯れるまで、魔力を求めるに違いない」
トムは日記帳を本棚の、ちょうどその幅の分だけ空いた隙間に差し込んだ。そうしてしまうと、他の蔵書と相違のない、何の変哲もない本にしか、それは見えない。
わたしはそんなトムの背中に、しなだれかかるようにして頬を添えた。黒衣の存外柔らかな生地が、頬を擦る。彼は、わたしが背伸びせずには肩に頬をのせられない程度に、長身なのだった。男らしい広い背中に体を預けていると、まるで恋人同士のじゃれ合いのような錯覚が起こる。そんなわけ、ないというのに。
「あなたの魂の欠片なんて」
わたしは彼がこの言葉の真意を汲むことなどないとわかっているのに、そう呟いた。そうせずにはいられない日だって、たまには許されていたかった。
「常に私とともに在ることを望まないと?」
彼は常の傲慢さでそう言った。やはり、彼は私の心を解さないのだ。無機質な日記帳より、この縋り付かなければ体温のぬくもりを感じることのできない、この肌を望んでいるのに。
「――逆はどうだ」
不意にトムがそう言って、わたしに向き直った。支えるように腰を抱かれて、まっすぐに射抜かれる。それはまるで、心を読もうとしているかのようだ。
「逆、って?」
わたしが彼の真意を尋ねると、トムは「分からないか」と眉を寄せて見せ、まるでわたしの生を握りこむように――実際、全ては彼の手に委ねられているのだが――わたしの首に手を添えた。
「君の不滅の命を、私に預けたい、とは?」
今度はわたしが眉を寄せる番だった。彼はつまり、わたしに彼と同じ行為を――つまり、ホークラックスを作らせることを、匂わせているのだった。わたしは先ほどのトムのように、彼の目を探るように見つめた。どこまでも深い色をしている瞳は、あまりに複雑に感情が絡み合っていて、本意を映そうとはしない。彼の心を汲もうとするなど、ばかばかしいとわかっているのに、わたしはそうせざるを得なかった。
「――わたしは」
わたしが口を開くのを、トムは注意深く見つめていた。
「わたしは、望まないわ」
トムの瞳はどこか失望したように揺れて、また冷たい色を宿した。しかしトムはその一瞬の揺らぎがなかったように微々たる表情の動きも見せずに、「そうか」と一言こぼす。
わたしは早く消えてしまいたいのよ、忘れてやいないでしょう、と、言い訳のように言葉を紡ぎそうになるのを唇を引きむすんで堪える。彼の望んだ言葉を言えないのは、もっと胸のうちの奥にある理由からだった。彼が理解しようもない、秘め続けた想い。ずいぶん長く閉じ込めたせいで、すでに全ての言葉を燃やし尽くしてしまったような想い。
「限りがあるからこそ、花は美しく咲くと言うわ」
トムはわたしの唯一の言葉を奪い取るように、強引に引き寄せて口付けた。わたしは目を閉じてそれを受け入れながら、そっと彼の背中に手を回すのだった。
レール上で羽化を始めた夜のこと